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時間のない館

ちょっと想像してみてくれたまえ、君。この世界のどこかにだね、どこでもいい、どこか山奥か、遠い海の離れ小島にでも、時間のない空間があるかもしれない。

ぼくが言っているのは、天上界とか彼岸のことじゃない。ぼくたちが生きているこの世界のどこかに、時間のない場所が人知れず存在しているのではないか、ということだよ。

何を言ってるのかわからん、という顔してるね。まあ、聞きたまえ。なにも遠い海のまん中にある島国ではなくてもいい。ぼくらの乏しい想像力に余分な負担がかかるからね。君が住んでるこの街の一角、ほら、その窓から見えているあの邸があるね。あそこの赤い尖った屋根の館、あの館の中には時間がない。そういう風に考えてみてくれ。

時間がないというのは、時間が流れない、止まっているということかって? そうじゃない。時間が止まるということは、時間は存在する。だって、存在しないものがどうやって止まることができるんだ。それでは時間がないことにはならない。

それに、考えてみたまえ。時間が止まってしまったら、ぼくらの意識の流れも止まる。なぜなら、意識の流れとは時間に他ならない。そうではないかね。意識の流れが止まれば、ぼくらはもう思考することができない。永遠の今に凍結されたままで、しかも凍結されてることも意識できない。なぜなら、意識した途端に、意識しなかった自分が過去になって、時間が流れてしまうからね。

だから、仮に時間が止まっていたとしても、ぼくらは気付くことがないだろうよ。だって、ひょっとしたら、もう時間は何度も止まっているのかもしれないじゃないか。だけど、ぼくらはその間のことを思い出せないだけなのかもしれない、とうわけさ。

じゃあ、時間がないとはどういうことかだって? そこだよ。ぼくが話したいのは。まあ、さっきの館を思い出してくれ。もしあの館に時計などというものがあったとしたら、さぞかし奇妙なものだろうね。

その館に住む男が、午前8時に目覚ましで目覚めたとしよう。男には10時に人が訪ねてくることになってる。だが、昨日夜更かししたために、どうもすぐに起きあがる気がしない。男はあと五分ベッドにいることにする。

だが、次に男が時計を見ると、その針はもう午後2時を指している。そして、男は自分が寝過ごしたことを悟る。あの人はもうやってきただろうか。そして、怒って帰ってしまっただろうか。

だが、彼が次に時計を見ると、それは午前9時を指してる。彼は急いでベッドから起きあがり、身支度をする。これで10時に無事来訪者を迎えることができるはずだ。そして、彼は考える。始めから自分はこれをを知っていたはずだ。だから、午後2時に寝過ごしたと思った自分は夢を見ていたのである、10時に来客を迎えたあと、彼は昼寝をしたのである、と

ところが、そのとき彼は何かを思い出す。彼は朝食に卵を食べてしまったが、それは昼食のためにとっておかなければならなかったことを。そこで彼はまた時計を見る。時計は午前8時を指している。そこで彼は、9時ではなく8時に起きることにする。そして、卵を食べずにとっておく。

そして、彼はまた考える。朝食に卵を食べたと考えた自分は、存在しえない。だって、自分は今卵を食べなかった。であるなら、午前10時の自分はそれを覚えているはずである。そこで、朝食に卵を食べたと考えた経験もまたないことになった。

そうやって、彼は彼の一日のつじつまを合わせることができる。時間がないということは、過ぎ去ったことが取り返しのつかないことではない。また、未来に起きるであろうことを予見できないということでもない。だって、時間がないというのは、時間が過去から未来へと一方通行で流れていく継起として起こらないということではないか。

その館の暦もまた奇妙なものだろうね。壁にかかったカレンダーは、男に今日は1843年の7月11日だと彼に教える。だが、彼は考える。そんなはずはない。なぜなら、彼が生まれたのは1901年の5月11日である。であるから、今日、彼は存在しているはずがない。

次に男がカレンダーを見ると、それは13149年の同じ日を指している。男は考える。いや、これもありえない。いくら医療技術が発達しても、そんな年に彼はもう生きてはいまい。それどころか、人類が生存しているかどうかさえ怪しい。

だが、と彼は考える。1843年と13149年の間のいずれかの年月に存在した自分は、1843年にはどこにいたのであるか。まったく存在しなかったのであるか。自分が1901年に、突如として無から誕生したのであるか。そして、13149年に自分はどこにいるのだろう。もう存在しなくなっているのか。だが、自分を構成していたいろいろな分子はどうなってしまうのか。質量保存の法則やエネルギー保存の法則からいって、それはありえないことではないか。

え? 何だって? そうだな。君は正しい。ある人が存在するというのは、ある人の意識が存在するということだ。そして、人の意識の同一性は身体の解体とともに失われる。だから、その男は、1843年にも13149年にも存在してない、と言える。

だが、思い出してくれ、君。この男は時間のない館の住人なんだ。だから、彼には過去も未来もない。あるのはいつまでも終わらない現在であって、この現在に合わせて、彼は勝手気ままに過去も未来も調整することができる。だから、時間が存在しないということは、身体とともに意識の同一性は失われないと考えざるを得ないじゃないか。

つまり、彼は肉体をもたない意識、霊魂として、1843年にこの世界を漂っていて、彼の曽祖父か曾祖母が誕生したのを目撃したかもしれない。十分にありうる話だ。13149年に、人類が滅亡した地球の様子を悲嘆の念を抱きながら眺めえたかもしれないじゃないか。しかも、彼はいつだってこれをできるんだ。ぼくらが今こうしている時にだってね。だって、あの館は時間の外にあるんだよ!

だから、時間がないというのは、こういうことじゃないかな。あの館では、かつて起きたこと、そしてこれから起きるであろうことが、常に、同時に存在している。それは、まだ何一つ起こってない状態とすべてが起こってしまった状態との、その間にあるすべてのものが、時間の壁に隔てられずに、現在としてあるんだよ。

まあ、歴史を最小単位の瞬間に細切れに切っていったと考えてみたまえ。肉を薄切りにするようにね。その瞬間、瞬間は、もう時間軸上の前後という関係ではつながっていない。継起じゃないんだ。それぞれの瞬間が、時間的継起をもたない空間みたいになるんだね。世界を構成する原子やエネルギーの空間的関係だね。

だけど、それぞれの瞬間が独立して、自己完結したものでもない。だって、そんなことをしたら、歴史が幾つにも分岐していって、ひとつのまとまりにならなくなる。朝食に卵を食べたら、昼食に同じ卵は食べれない。だから、幾つもの世界を想定しないとならなくなる。一方の世界では、男は卵を朝食に食べて昼食に食べなかった。他方では、朝食に食べずに昼食に食べた。そういう風にね。

だから、時間のない場所でも、ひとは現在の視点から過去と未来のつじつまを合わせようとするだろう。時間の中で暮らしてるぼくらが、そうしてるようにね。ちがいは、ぼくらとちがって、彼は実際につじつまを合わせることができるんだ。時間を越えて旅することによってね。彼にとっては、取り返しのつかない過去もなければ、予測不能な未来もないんだからね。

え? なぜ彼がそんな手間をかけて、つじつまを合わせようとするかだって? 世界の分裂を防ぐためじゃないかな。そうしないと、自分もまたいくつもの自分に裂けていってしまうからね。いくつもの世界に同時に生きるのはつらいことじゃないかい? 卵を食べた自分と食わない自分、人との約束を守った自分と破った自分の両方を演じるのは? だから、自己意識の同一性を保つために、つじつまを合わせておかないとならんのさ。

なんだか浮かない顔をしているね。そんな仮定上の話が何の役に立つか。そう君は問いたいんだろう。でも、時間があるというのはどういうことであるかは、時間がない状態を想像しないと、言い当てることができんじゃないか。それができないために、ぼくらは相当とんちんかんなことを言ったりやったりしている。ぼくに言わせるとね。だから、たまにはありえないことに想像力を働かせてみるのも、悪いことじゃないんだよ。賢く生きたいと思うならばね。

じゃあ、今度は、君自身が、何かの拍子でその館に迷い込んだと想像してみようじゃないか。時間のある場所から時間のない場所へと移動するんだね。どんなことになると思うかね。君がその館に足を踏み入れた途端、何が起こると思うかね。どうだね。ちょっと想像がつかないね。でも、少し努力して想像力を働かせてみよう。

ぼくが聞いた話だと、どこか東洋の国にこういう話があるみたいだね。海の底にある王宮に招待された男が、何日かそこで過した後で陸上に戻ると、故郷では何十年も経っていたという話さ。つまり、海底王国と陸上世界では、時間の流れの速さにちがいがあったらしい。

だけど、もしかすると、その東洋の海底の王国には時間というものがなかったのかもしれない。つまり永遠の現在しかないのさ。たまたま、彼は何十年後の陸上世界に帰還したけど、それが五秒後の世界でも、または何百年前の世界でもよかったわけだ。

君はその館の窓から、外の世界を見るね。そこには時間が継起として流れている。君は、館の窓から、過去から未来にわたるどの瞬間でも切り取って見ることができるね。歴史全体を見ることだってできる。その気になればね。
君はそれを見終わって、館の外に出る。そこで、通りがかった人が君に話しかける。「あそこで、何をなさっていたんですか。」

君は答える。「いや、信じないかもしれないが、私はこの世界の歴史をぜんぶ見たんだよ。」

だが、その人は笑ってこう言うだろう。「バカなことをおっしゃいますな。世界の歴史ですと? あなたがあの館に入って出て来るまで、私はずっと見てました。その間に十五分とだって経ってやしませんぜ。」

君は驚いて叫ぶ。「十五分だって! そんなことがあるはずがない! 私は、あの中で本当に長い、長い時間を過ごしたように思うよ。自分の一生を使い切るくらいにね。」

男は、君がちょっと気の毒になって言う。「まあ、高いところから飛び降りた人が、地面に叩きつけられるまでの間に、走馬灯のように自分の人生に起こったことをぜんぶ想い起こすようなこともあるでしょうからね。」

だが、君はぶつぶつと言い続けるだろう。「いや、そうじゃない。自分の人生を振り返ったんじゃない。人類の、いや宇宙全体の歴史を見たんだ。全てがまだ起こっていない時点からすべての未来を見、そして全てが起こってしまった時点からすべての過去を見たんだ。そうやってはじめて、ぼくらにはわかるんだ。現在のまったき意味がね。ぼくは宇宙の外から宇宙を眺めたんだよ・・・・・・」

で、男は肩をすくめて、君を置き去りにして、歩き去ってしまうというわけさ。

(解説すると、自分はこの話を今朝の夢の中で創作した。昨晩、なかなか寝つけなくて、時間について考え始めた。そうして考えてるうちに、時間の中に生きるということについて何か悟ったような気がした。

もううまいこと言葉にできないのだが、哲学者が時間の外にある永遠の真理なんていうときに、いったい何を意味してるかが理解できたような気がしたのである。

その言葉にならないような体験を他人に伝えるためにはどうしたらよいか。そう考えてるうちに、気味の悪い洋館みたいなものが頭に浮かんで、こういう話を考えたのである。恐らく、最近、カフカとかトーマス・マンを読んでいたのが影響したんだと思う。

そうこうしてるうちに、外でカラスがうるさく鳴き始めたのに気づいた。こんな夜中になんだ、と思って窓の方に眼をやると、もう空が白み始めてるらしい。びっくりして時計を見ると4時18分だった。

自分は11時ごろにベッドに入ったから、そんなに長いこと考えてたはずがない。眠った記憶がないのであるが、どうやら何時間か眠っていたらしい。そうして、ベッドの上で眠れなくて創作をしている夢を見ていたらしいのである。うまくつながらなくて後知恵で付け足した部分もあるが、ほぼこのような形で夢に出てきたのである。)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。