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誰とどんな世界に生きたいか選ぶこと

前回(記事の最後にリンクを貼っておいた)の続きだが、どうやら話がわかかりづらいらしいから、今回は少し後戻りして、趣味と判断力と政治がどういう関係にあるのかについて話をしてみよう。

次のような状況を想像してみてほしい。ある日、きみはひそかに想いを寄せている人に美術館に誘われた。喜んで出かけていったきみに、その人は今まで見たことのない絵を見せて、「どう思う?」と感想を求めてきた。

正直なところ、きみは絵なんかに関心がない。絵なんかいくら見ても腹の足しにもならんじゃないか、と思っている。そんな無趣味なきみだから、美術史なんか学んだこともないし、技法や様式に関する知識もほぼ皆無である。

そんなきみが頼りにできるドラえもんならぬグーグル先生がいるんだが、まさかその人の前でスマホ検索するわけにもいかない。

まさに自分の趣味、純粋な判断力が試されているのである。

判断するということ

趣味判断というのは、ある特殊なものを「よい」とか「おいしい」とか「美しい」と判定するような判断である。

たとえば、ぼくらは「あの絵はよい」とか「この紅茶はおいしい」とか「その風景は美しい」などと言う。その際、ぼくらは判断力を行使している。ちょっとむつかしく言えば、判断力を行使するとは、特殊なもの(あの絵、あの紅茶、その風景)をより普遍的な範疇(よい、おいしい、美しい)に包摂することである。

数学の記号で表せば以下のようになる。

 あの絵 ∈ よいもの
 この紅茶 ∈ おいしいもの
 その風景 ∈ 美しいもの

この宇宙には無限に多様なものが存在しているが、そうしたものをある基準にしたがって限られた数の範疇に分類していく。言ってみれば、部屋に散らかってるものを、その種別ごとに分類して、ラベルを張った箱に詰めて整理していくような作業である。

これをやらなければ、世界は互いにつながりのな特殊なものの集りにしかならないし、個々のものと自分との関係も明らかにならない。この紅茶とあのワインは「おいしい」という点で共通である。あの絵とこの風景はどちらも「美しい」。そうやって判断力を行使することによって、ぼくらは世界を自分たちの基準で評価し、その評価にしたがって整理整頓しているのである。

であるから、判断力とは世界をどう作り上げるかということに係わっている。むろん世界の素材はぼくらに与えられている。しかし、それをどのように整理するかは、ぼくら自身がやらなければならない。よいものとそうでないもの、おいしいものとそうでないもの、美しいものとそうでないもの、などを区別しないと生きていけない。要するに、生きることは判断することを要求する。

反省的な判断

ところで、あるものに関しては、この判断力は直接的で反省を経ない。考えずに判断している。例えば、食べ物がおいしいかどうかは、反省によって決められるのではない。食物が舌に触れた途端に、おいしいとかまずいという判定が、頭ではなく心(あるいは身体)によって下される。

これらは味覚の判断であるが、趣味判断とは呼びがたい。飢えた人が久しぶりに食物を口にして「おいしい」と言ったとして、その判定内容を趣味がいいとか悪いとか言うのは筋違いに思える。食欲という生理的な欲望に近すぎるのである。

別の例をあげれば、性的な刺激に対する判断もそうで、趣味以前のものである。趣味判断(あの人は品が悪いとか礼儀正しいという判定)は性的な刺激に対する直接の反応ではなく、その反応を自分で反省した結果の言動にだけ適用されるべきである。

食欲でも、紅茶とかワインのような嗜好品になると、反省の要素が入り込んでくる。食物でも栄養摂取という必要からは解放されたグルメみたいなもの、食っても食わなくてもよいものには、反省の要素が多く含まれるようになる。趣味の発達した人とは、なんでもおいしいと喜んで食べる人ではなく、そのような反省的判断が豊富な人のことであろう。

だが、ある紅茶やワインを口にしても、すぐにおいしいかどうか判定しかねることが多い。そんなときに、ぼくらはどうするか。

一つには、その銘柄や原料の産地や収穫年といった情報をチェックして判断を下す。あるいは、目利きと言われるような人の評価を参考にしたりする。この人がおいしいというなら、きっとおいしいんだろう、と思うわけである。もしくは、ただ右見て左見て、自分と同じような人々がどういう判断を下してるかを確認してから決める人がいちばん多いかもしれない。

しかし、そのあるものが自分が体験したことのないものであり、そのもの以外にはいかなる情報もなく、また外的な権威や他人の意見もあてにできないような場合はどうであろう。たとえば、初めて見た絵、銘柄も産地も不明な紅茶、今まで接したこともない風景を、その場で判定しなければならない場合である。これが冒頭にあげた美術館デートでの状況であった。

趣味と政治

さて、きみは自分の関心のないものに判断を下さねばならぬ。そこで、きみと彼女とのあいだに次のような会話が交わされる(性別をはっきりさせないと会話が書きにくいから、恣意的であるがきみが男性、相手が女性と設定した。もちろん逆でも構わない)。

「ぼくは絵に関心ないから、よくわかんないよ」

「関心がないですって? どうして関心がないのかしら」

「うーん。この絵はいい絵かもしれないけど、たとえそうだとしても美術音痴のぼく何の役に立たない。だからわざわざ判定する必要を感じないんだ」

「役に立たない、ね。でも、何かの役に立つ絵なんてものがあるのかしら」

「それがぼくにはわからないんだ。なぜこんな役にも立たないものにこだわる人々がいるのか。よほど暇なのかなって」

「でも、高く売れる絵とそうでない絵を見分けられないと、損をすることもあるんじゃないかしら」

「そうだね。ぼくが絵に興味をもつとすれば、それが理由だね。だけど、それは絵の交換価値を判定するんであって、美術作品としての価値を判定するわけじゃない。どのみち、この絵はぼくのものじゃないから、売るわけにいかない。だから、興味がないのさ」

「世界はあなたの気を惹こうとしないわ。だって自然は娼婦じゃないのよ。あなたのお母さんでもないの。万物の母なのよ。あなたのために世界があるわけじゃないの。野の花や真っ赤な夕日は、あなたの役には立たない。でも、それを美しいかどうか判定することはできるじゃない。あなたは何かを美しいと感じたことがないの? 美しいものというのは何か別の目的の役に立つわけじゃないけど、その存在だけで私たちの心に満足を与えてくれるものじゃなくて? 世界ってそういうものじゃないの?」

「そりゃ、感じることはあるさ。だけど、そんなのは一時的な感傷だね。世界がいくら美しいもので溢れていたとしても、ぼくには一文の得にもならないんだから、それに一喜一憂する意味がわからないよ。美しいものはあればいいけど、なければないでもなんとかなるさ。世界より、まずぼくやきみが幸せになることが大事だよ。それには美しいものより役に立つものが必要なのさ」

「あなたはどちらの世界を好むのかしら。あなたは何も所有していないけど、美しいものに満ちた世界? それとも、あなたはすべての価値あるものを所有しているけども、美しいものが何もない世界?」

「弱ったな。そんな仮定の質問には答えられないよ。そもそも美しいものも、広い意味での『よいもの』の一種じゃないのかい。だから、ぼくにとってよいものが、ぼくにとって美しいものだ。この絵はぼくにとってよいものではないから、それが美しいかどうか、ぼくはどうでもいい。美しくないって言ってるんじゃないよ。きみにとっては美しいかもしれないし、ぼくはそれを否定しない。それでいいじゃないか」

「あなたのいうことが正しいとすると、この世界を美しいものとそうでないものに分類する基準は、ひとそれぞれってことね。何が自分の役に立つか、幸せにするかという利害だけが、美しさの判断基準であって、それは偶然一致したりしなかったりする。利害を共にしてる人は趣味も同じで、同じ世界に住んでる。そうじゃなければ趣味が合わないから、同じ天を頂いては生きてないってわけね」

「だって、実際にそうじゃないかな。だから、趣味はひとそれぞれ、ということにしておいた方がいいんだよ。余計なケンカをしないようにね。それで何か問題があるのかい? それより、おなか空かない? 何か食べに行こうよ」

「ひとつ問題があるわ。大きな問題がね。趣味の合わない人といっしょにご飯を食べたくなるほど、私はお友だちの選択に無頓着じゃないの」

「なんだい。怒ったのかい。ぼくがきみの趣味を理解しないからって、それはひどいんじゃないかな。ぼくは誠実に振舞ったんだ。きみがぼくの趣味を試してたのはわかってた。ぼくはきみの気を惹くために、いくらでも口から出まかせを言えた。だけど、それをあえてしなかった。それは分かってほしいな」

「ええ、わかってるわ。だから、私も誠実に応えてるのよ。あなたがこの絵に関心をもつべき、もう一つの理由をあなたは忘れてるわ。この絵の美的価値を判断することで(というより、判断を拒否することによってその価値を否定することで)、あなたは仲間を選択したのよ。どういう人といっしょに生きたいか、どういう世界を他人と共有したいのかってね。残念ながら、あなたは私や私の生きたい世界を選ばなかったのよ」

こうなると、きみも判断力に関する話を他人事として、ただ遠巻きに見てるわけにはゆくまい。きみは誰といっしょに、どういう世界に生きたいんだ?

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このシリーズの第一回目と第二回目の記事は以下リンクをクリックしてみてください。


コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。