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国際政治経済学講義ノート(リベラリズムについての補足)

リベラリズムの講義の補足です。みなさんのレポートを読んで反省したんですが、自分の講義ではリベラルの理想主義的な側面を強調しすぎて誤解を与えてしまったようです。どうやら三つの理論的アプローチではリベラリズムがいちばん人気がなかったみたいなので、リベラリズムの名誉のためにも少し補足しておきたいと思います。

グローバル政府ではなくグローバル統治

理論的には、リベラルの理想はグローバルに統合された市場をグローバルに統合された世界国家なり世界連邦が統治するという世界であると言えます。しかし、実際のところは、ほとんどのリベラルは、世界国家・連邦というのはさすがにユートピアンな理想であると考えています。遠い未来には可能かもしれませんが、近い将来にこれが実現することはないと考えるからです。

だから、リベラルの大半は世界国家を提唱する手前でとどまります。グローバル・ガヴァメント(世界政府)ではなく、国際協力レジームによるグローバル・ガヴァナンス(世界統治)というのが当面の課題であると考えています。政府のように実体があるものではなく、主権をもつ各国の協力による世界経済の統治です。その意味で、リベラルは国際派(インターナショナリスト)でもあります。

国際レジームの粘着性

具体的には、リベラルは国際組織やレジームというものは「粘着力がある(sticky)」と考えます。リアリストが考えるように、国際政治の権力構造の変化にともなってすぐにバラバラになってしまうのではない。いったん作られた国際レジームはそれ自身の生命を得て、それを生み出した権力構造が変化してもくっついたままである。そうなれば、米国の覇権が衰えればリベラルな国際経済秩序もまた崩壊するという覇権安定論も正しくないことになります。

国際レジームの粘着性を説明するのに、リベラルは理念の力を強調します。リアリズムもマルキシズムもどちらも物質主義です。リアリズムは軍事力、マルキシズムは経済的必要が政治を左右すると考えます。リベラリズムはそれを否定はしませんが、理念、つまり人間が頭で考えた考えもまた歴史を決定すると考えます。アイデアリズムですから理想主義とか観念論と訳せるんですが、現実にはありえない、ユートピア的という意味ではなく、人間の歴史は物質的なものによっては完全に決定されない、自然に存在しないものを実現しようとする人間の意志もまた歴史を動かす、という意味での理想主義です。

国際レジームというのは、原理や規範といったものに国家の期待が収斂したものというお話をしましたね。この原理や規範というのが理念です。この原理や規範は、あのリカルドゥの自由貿易理論のようなものによって正当化されています。ですから、理論や知識という物質的な実体をもたないものから構成されている。

こうした原理や規範は別に法律でもなんでもない。物質的な強制力を伴わないただのアイデアですね。しかし、国家がこの原理や規範をよいものである、もしくは当然守られるべきものであると考えるかぎりは、これが国家の行動を規制する。たとえば、自由貿易レジームの原理や規範などというものも最初は覇権国の強制力によって導入されたのかもしれませんが、実際に自由貿易に携わってみるとこれがよいものであることがわかる。つまり学習する。

理念の力

この理念の力を説明するために、二つの事例を紹介してみましょう。たとえば、リアリズムの理論に対する批判として次のようなものがあります。リアリズムの理論にしたがえば、米国という覇権国の台頭を抑えるために、ヨーロッパ諸国なり日本なりが反米同盟を形成しなければならない。確かに冷戦後にかつて「西側諸国」と呼ばれたような国の関係がぎくしゃくするようになっている面があるんですが、しかし反米同盟というところまではいかない。トランプ政権下で対欧州関係、特にEUの盟主であるドイツとの関係が悪くなってますが、これが反米同盟になる気配は今のところない。

もう一つは、国際関係論において珍しく実証された命題として、「民主国同士は戦争をしない」というものがあります。実際には民主国の定義がむずかしいので、実証といっても不完全なんですが、どうも嘘だとは言えないだけの信憑性がある。

この二つの事例から推測されるのは、どうも国際関係というのはリアリストがいうように単に権力分布の関数ではない。そうではなくて、国家もまた同じ文明に属しているとか、似たような価値観を共有しているという理由で友を選ぶし、またその反対の理由で敵視したりする。民主国同士が戦争しないのは、過去の事例の大半において「民主国」というのが同じ文明に属する欧米諸国であったからかもしれないとも推測されます。

そうであると、理念というものが国際関係においても重要な役割を果たしている。国際経済秩序というものも、やはり何らかの理念を体現したものであって、覇権国がなくなってもこの理念を国々が共有しているかぎりは、そう簡単には崩れない。そういう主張をリベラルはしています。

人間の学習能力

これはリアリズムに対抗するためのその場しのぎの議論ではありません。リベラリズムという思想的伝統に深く根差した考えです。今回の講義では触れませんでしたが、リベラルの基本的信条の一つに、人間はまだ不完全であり学習によってどんどん進歩するという信念があります。動物とちがって人間の歴史に進歩があるのは、この学習能力のおかげであるとリベラルは考えるわけです。マルキシズムはリベラリズムと同じく歴史を進歩的なものと見ますが、学習能力ではなく生産技術や生産関係という物質的な要因を重視します。リベラリズムはそうではなく、個人の修養というものが大事なんですね。

そうであるから、国際政治経済もまた個々人が学習するにしたがって変化する。より合理的な方向に進むはずである。リアリズムのようにアナーキーが不変の状態であるとは考えないわけです。一足飛びにグローバル市場とグローバル国家には到達しないかもしれませんが、人類の生活が氏族とか部族といった小さな単位から国民国家というより大きく合理的な単位で営まれるようになったように、いつかは人類共同体というものができるであろうという理想はリベラル的信条からは自然に出てくるものです。

ですから、リベラルは国連やその傘下にあるような国際組織や国際レジームを、強国の利害に合致するかぎりの飾りとは見なしません。そうした国際組織を通じて国際協力が密になっていった先に、世界国家なり世界連邦を見ます。

具体的には、国際協力を経験した人びとが偏狭なナショナリズムを脱し、より普遍的な人間観に基づく合理的な共存を求めるようになる。実際に、過去においてそのような学習が行われて、今日のわれわれがある。今実現可能であるかいなかは別として、今日、ある程度の教養のある人々にどのような世界が理想であるかを問えば、だいたいそのような答えが返ってくるはずです。理想主義ですが、一概にユートピアであると切って捨てられない何かがある。

世界連邦の前例?

今日ではそんなことがありうるわけない考える人も多いでしょうが、例えば EU などは地域的な枠組みでの世界国家・連邦の試みであると言えます。だが EU もうまくいってないじゃないかという人には、一つ意外な例を挙げておきましょう。アメリカ合衆国です。

「合衆国」というのは United States ですから、文字通り訳せば「合州国」です。州と呼ばれているのは原語では states ですから、文字通り一つの国家と見なされていました。実際に、the United States of America が単数名詞になるのは南北戦争以後くらいで、それ以前は複数形でした。つまり文字通り複数の国家の連邦だと考えられていたんですね。だから、今日でも各州はそれ自身の憲法を有していますし、教育とか警察などに主権を持っています。

別の言い方をすると、アメリカ合衆国というのは、もともとは一つの国家としてではなく、勢力均衡というものに頼らないと平和が保てない陰険なヨーロッパ国際政治に代わる国際関係システムとして構想された面があります。

もちろん、米国の統合の歴史も平坦ではありません。南北戦争を経なければならなかったし、第二次世界大戦後においても南部でも黒人差別の撤廃のために連邦政府が介入せざるを得なかった。今でも南部では連邦政府に対する不信感が強くて、小説や映画なんかでは FBI が悪役で出てきたりしますね。悪の帝国や全体主義国家の手先のようなイメージをもたれていたりするんです。しかし、そうした困難を克服して複数の states の間の協力が進んでいけば、アメリカ合衆国のような世界連邦ができるかもしれない。そのような希望をリベラルは抱いているわけです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。