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ひとの話を「聞く」ということ

「キク」という動詞が日本語がある。「聞く」とも「聴く」とも書く。どちらも耳という器官を用いて音を知覚することであるから、どちらを用いても大差はないが、辞典類を調べると次のようなちがいがあると言われているらしい。

「聞く」は、音が外から勝手に入ってくる状態を主に指す。音が向こうのほうからやってくる。自分から聞こうとするというより、「耳に入る」というニュアンスに近い。

これに対して、「聴く」は「身を入れてキク」というニュアンスがあるらしい。ただ耳の穴が開いてるだけではなくて、意識が音のほうに向かっている。音の美しさとか意味を理解しようとしてる。つまり、耳だけではなく心が外に開いてるような状態である。

だから、厳密に言えば、「聞こえますか」であって、「聴こえますか」とは言えない。「聴いてますか」であって「聞いてますか」ではない。音楽会や講演会の聴衆は「聞衆」ではダメであるし、「聞き流す」ことはできても「聴き流す」ことはできない。「聞き捨てならん」も、こちらが聴こうと思ったわけじゃなくてたまたま耳に入ったことに関していうことが多い。

面白い表現として、「人の言うことをキク」というのがある。面白いというのは、ただ人の言ってることを聞いてるだけじゃなくて、言われたことを実行するという意味が含まれてる。「あいつはひとの言うことを聞かない」というのは、必ずしも耳を塞いでるということではない。聞いても実行しないのである。そうなると、この「キク」は、聴覚という感覚を働かせる以上の意味をもたされている。

さてしかし、キクにはもう一つ意味があって、「訊く」とも書く。「道をキク」というのもよく考えるとおかしな言い方で、「聴く・聞く」とは方向が逆である。自分のほうから道を尋ねることを、相手に道をキクというわけである。

だが、問われずに道を教えてくれる人はいないから、道を聞くためにはまずこちらから「○○にはどう行ったらよござんしょうか」と問う必要がある。つまり、問う行為と答えを聞く・聴く行為は切り離せない。だから、まとめてキクですましてしまう。正確にいうならば、道を尋ねて、そして道を聴くわけだが、尋ねなければ聴けないから、その前段階をあとの段階に含ませてしまったらしい。

そういえば、ミルという動詞も「見る」と「視る」「観る」「診る」「看る」など、キク以上に細分化されている。特に後者二つは、なんらかの具体的な実践的行為と結びつけられている。「診る」とか「看る」は医者や看護人が患者を視野に入れているだけでは完結しない。見た結果として薬を処方したり、または患者の必要を理解してそれを満たしてやってはじめて、「診た・看た」ことになる。

キクというのも、音声としての言語を耳に入れて、その意味を理解するために問い、そしてその理解に基づいて何かを実行してはじめて完結する、とも言えるわけである。

興味深いのは、漢字を使う前の日本人は、これをぜんぶ「ミル」とか「キク」ですませていたわけである。日本語には、「おかし」「かなし」のように、複数の、しかも互いに矛盾するような意味を含ませた語がたくさんある。これを漢字で書き分けるようになって、視覚上は区別できるようになったが、今でも耳で聞けば「ミル」「キク」というのは同じ動詞である。

どうも日本語は分析的というよりも綜合的なもので、ある事柄を細かく分類してしまうというよりも、一つの言葉にできるかぎりの意味を盛り込もうとする傾向があるらしい。言葉を言霊と呼ぶのも、言葉自体が魂であり、字面の背後にさらに深い意味がある、という感じがする。短い言葉に多くの意味が詰め込まれていて、読み手や聞き手は表面に現れないその意味を解釈しないとならない。

そういえば、「言葉を味わう」なんていう言い方は、英語圏ではあまり耳にしたことがない。国語教育なんかも、英語圏と比べると、言葉の背後にある意味の解釈に重きがあるようで、元来きわめて解釈学的な言語なのかもしれない。

横道にそれたが、「キク」という動作は、日本人にとっては、ただ耳の穴が開いていて聴覚を働かせる、という以上の意味がもたされたものであった、という話である。そこには、自分の心を相手に開いて、相手と理解を共にし、その共通理解に基づいて行動する、という能動的な行為が含まれている。つまり「対話をする」というときの一連の行為の連鎖が「キク」に詰め込まれている。

対話とは、問うてそれに答えることである。相手を理解するにはわからないことを問わなければならないし、相手に理解してもらうには問いに答えないとならない。そうやって問いと答えを繰り返すことによって、互いに疎外されていた他人同士が一歩一歩理解の歩を進めていく。それが対話である。だから「訊く」もキクに入ってくる。問うのもキクのうちなのである。

先般、ツイートをしているときに、一文に「聞く」と「訊く」が続けて現れたときに、自分はこのような発見をした。以前にある記事(リンクをページ下部に貼っておく)で書いたように、発見には何か先行理解があって、この場合も例外ではなかった。ハンス=ゲオルグ・ガダマーという哲学者が、こう言っているのを読んだばかりであったのである。

対話をするには、まずもって、対話者たちが互いに相手を無視して語ってはならない。対話をすることには、したがって、問い答(応)えるという構造が不可欠である。対話術の第一条件は、その都度相手とともに歩むということを確保しておくことである。(ガダマー『真理と方法』第二部第二章第三節、轡田収・牧田悦郎訳)

片方が一方的に説明して、他方は聴(聞)いているだけ。大学の講義なんかでもよくある光景であるが、プラトンの対話篇なんかを読んでいても、大事な場面になるとソクラテスが一方的に長話をして、他方は聞き役に廻る。なんだか対話というより講義に近くなる。だけども、そのような場合でも対話が成立している場合がある。ガダマー先生は、つづけてこう言っている。

このことを示すとてもよく知られた例は、プラトンの対話篇で対話相手が始終「はい、おっしゃる通りです」と応じ続けることである。この単調さは裏返せば、積極性でもあって、つまりそれは、問答において話し合われている事柄が内的一貫性をもってまえに発展していくということである。問答をするとは、対話者たちが目指している事柄に指揮されるようになるということ……である。問答をするには相手を議論でへこますのではなく、反対に、相手の意見が事柄に照らしてどれほど重要か、ということを実際に検討することである。(同上)

であるから、ただ相手の言うことを鵜呑みにするわけでもなく、そうかといって相手をやりこめるためだけに問うのでもない。議論を一歩進めるごとに、相互に理解が共有されていることを確認するという点に、問いと答えの本来の役目がある。

「じゃあ、話を聞こうじゃないか」なんて改めて言うときは、そういう意味が含まれてる。ただ耳に言葉が入ってくるんじゃなくて、心を開いて、一方の言いたいことが理解できるように双方で努力をしよう。そういうときに、ぼくらは「話を聞く」と言う。通り一遍ではなく「身を入れてキク」と言っているのである。

しかし、話を聞いてもらう以上は、相手の問いに心を閉ざしてはならない。相手に理解してもらおうと思えば、自分自身を問いに開かなければならない。問われることを拒絶してしまったら、自分を理解させることはできないのである。

であるから、対話とはわかろうとし、またわからせようとする人たちのあいだでしか成り立たない。前提条件であって、どちらが欠けても対話が成り立たない。これがぜんぶ「キク」である。

まだある。もし対話が相互理解に達せば、それはただ「聞き流す」わけにはいかない。「人の言うことを聞いた」以上は、新しい相互理解にしたがって、各人の行動が制約されるようになる。つまり実践的帰結が伴う。これが「言うことを聞く」の意味であろう。これもガダマー先生のいわゆる対話と共通である。

「あいつはひとの話を聞かない奴だ」とか「聞く耳をもっていない」などというときも、あいつは聴覚に問題があると言ってるわけではない。そうじゃなくて、対話を通じて他人と理解を共有しようとしないという意味である。これを今日では比喩、つまり「まるで耳がついてないみたいに」として理解するようになってるが、「キク」という動詞の本来の意味が相互理解に基づく実践まで含むのであれば、たとえではなく文字通りの意味にもとれる。

蛇足と我田引水に堕することを怖れずに付け足すと、こんな腹の足しにもならん雑学が何の役に立つか、と思われる向きもあるかもしれない。しかし、自分の経験であると、海外のインテリさんたちに喜ばれるのはこういう話である。喜ばれるのは、その場かぎりの暇つぶしで終わらなないからである。彼らの知らなかったこと知らしめ、新しい問いを惹起して、さらなる対話を閉じずに開くからである。こんな話がたくさんできる人が衒学的でない教養のある人と見なされる。

日本人が海外で話すネタに困ることが多いのは、海外から輸入した知識ばかり多くて、なんだか欧米人の出来損ないみたいな話しかできないからである。自分の経験に裏打ちされた話が苦手だからである。別に海外のひとは諸君の試験官じゃないから、どこの本にも書いてあるような正答をどんなに流ちょうに繰り返されたところで、楽しくもなんともない。あくびをかみ殺すのに忙しくなるだけである。

だから、こういう話を考えるひとを、身の回りにひとりおいておくに越したことはない。自分の周囲にはそんなひとはいないというひとのために、吾輩のような閑人がこんな話をこんなところで披露しておる。ときどき投げ銭をしてやるか、そうでなくともただのハートマークでも投げてやれば、当人もおおいにその気になって張り切って書く(本当は「キイて」もらうのがいちばん嬉しいのだが、顔を合わせる仲ではないから、そうでもしてもらわないとわからない)。看板ばかり大仰なグローバル教養講座みたいのを大金をかけて大学に設置して、少数の秀才たちに学んでもらうよりも、よほど日本のグローバル教育に資するんではないかと思う(←ウソ)。

発見に関する記事はこちらである。ガダマー先生の理解の理論と相通ずるところがあって、自分などは大いに勇気づけられておる。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。