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生きる力(と少子高齢化社会の暗黙の哲学)

朝顔の命

娘が通う日本語補習校では、朝礼の時間に校長先生のありがたいお話がある。先週はアサガオの話であった。日本では夏はアサガオの種をまいて観察日記というのが定番なのであるが、南国に住む子たちにもその一片を経験させてあげようという配慮で、自宅で鉢植えにアサガオを栽培して持ってきてくれたのだ。

日本であると、種をまいて、芽が出て、花が咲いて、種になる頃には夏は終わるのであるが、ここはぬくいのでさらにその種が落ちて芽を噴く。冬までにもう一世代のアサガオが育って枯れていくわけである。つまり、夏に元気に育ったアサガオがその生涯を終えそうになって、「これは、もうあかんかな」と思うと、その足下に新しい命がもう芽吹いているわけである。

ちょっと意表をつかれたのだが、校長先生はそれを「生きる力」と呼んだ。人間で言うと、個体としての人はいつかは死ぬけれども、その前に子孫を残していくわけで、種としての人は生き続けるのである。

個を超えて生きる力

通常「生きる力」というのは、個人が社会の中で生きていくのに必要な能力のことを指すことが多い。最近は学校なんかでも「生きる力」を養う教育なんて言われているようだけども、個人が社会の競争を生き抜いて飯の種を確保していけるように育てないとニートが増えて困るというのが目下の懸念のような気がする。

校長先生のいうところの「生きる力」というのは、そんな個体の社会環境への適応能力のそのまた向こうにある種としての生存能力である。個体としての短い命を全うするだけでなく、その命を新しい命へとつないでいくことである。自分たちだけがよき人生を生きようとするのではなく、自分が全うしきれない人生の可能性を子々孫々に生きてもらおうとする心持ちである。

もちろん、そのためにはまずは個体としての自分が生きて子を生まなければならない。しかも、ヒトの場合はアサガオと違って生まれた子が自立するまで結構な年月を要するから、子が生まれたのでワシらの役目は終わったというわけにはいかない。さらに、ただ餌を与えるだけじゃなくて、様々な文化も継承しないと一人前に生きていけるヒトにならないのであるから、よけいに手間とカネがかかる。

親になった人ならわかるだろうけど、自分のことなど後回しで何十年か余分に生きないとならないのがヒトの一生である。ようやく子が手を離れたなという頃には、自分の人生の可能性は既に大方閉じられている。誰でもやることだからと見くびられがちだが、子を生み育てるというのは会社を設立して経営する以上の結構な大事業である。相当な「生きる力」が要求されるのである。

少子高齢化社会の哲学

少子高齢化というのは、こうした「生きる力」の低下であるとも言える。この大事業を嫌って、子を育てる手間をなるべく省き、個体としての生命をできるかぎり引き延ばそうとしてきた結果である。自分自身が楽しい目に遭う前に死んでしまっては生きている意味などないという、無言の哲学の所産である。共同体ではなく個人が大事であり、これから生まれてくるであろう人の命/生活/人生を犠牲にしてでも今生きている人の命/生活/人生を楽しく美しくしようという近代のプロジェクトが行き着くべくして行き着いた境地である。

人間が増えすぎた今日、先進国における人口減少は悪いことばかりではないと思うのであるが、それが意識的な選択ではなく、我が民族の種としての「生きる力」が低下しているせいということになると、手放しで喜ぶべきことなのかどうか考えさせられる。

まだまだ「生きる力」を失わずに、どん欲に生き、子をたくさん産み育てていく人々がいるので、種としての人類に対する気遣いはいらないのであるが、「生きる力」を失った我が民族のようなものはじきにそうした人たちに取り込まれていってしまう運命にあるのかもしれない。そうして、今生きる力を持っている人たちもまた、個人主義的になるにつれ、この力を失っていくかもしれん。

人間が人間たるには自然を克服し、自らの意志に従わせなければならない。だが、これに成功すると生命体としての自己の存在の基盤を掘り崩す。安全につくりかえられた世界で、ぼくらは生きる力を失う。少子高齢化ほど宇宙における人類の特異な地位を示す事実もそうたくさんはないような気がする。

(2011年8月31日付。最終段落を削除して新たに加筆)

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。