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「父殺し」の黒幕は母だったということ

女神と官能的愛

 大地(ガイア)とは、そこからすべてが生れる「所」である。「人」ではなく「所」として表されるのは、それが世界を構成する多と区別されるのではなく、多をすべて包含する場所として捉えられているからである。「女」として表されるのは、大地が万物を産み育てるものであるからである。

 すべてのものは大地から生まれる。その夫である天(ウラヌス)でさえ。さらに自分が生んだ子らと交わって、倦むことなく生み続ける。尽きぬ乳で生命を育み続ける。官能的自由を許し、善悪の区別なくすべての生命を無条件に受け入れる。「生きよ」というのが母なる大地の声である。死さえも生命の流れのなかに組み込まれている。元来は、これが聖なる領域であり、宗教的心情の源であったかと思う。

 だが、この大地こそが子に父親殺しを示唆する。そうして、父は現れては追放されるが母は残る。母系社会を思わせる神話である。善悪を司るゼウスの主権の確立は、どうもこの祖母に対する勝利でもある。母系社会の猥雑な愛に対する知性と家父長的権威による秩序の確立とも言えそうな神話である。今後、父は去らずに残る。もはや官能的自由は無条件では許されない。善と悪は峻別され、悪は生命の流れから追放されなければならない。「生きよ。だが価値無きものは滅せよ」というのが父なる神の声である。だが、そのゼウスでさえ、祖母の庇護と承認のもとに父を追放し権力の座についたのである。

母から引き離される子

 人間は自分が生まれついたこの世界を、幼児期の体験から培われたイメージで理解するというのが精神分析の前提である。自分などはそう簡単な話かなと疑っているが、母性に関する話は頷かされるところが多い。厳格な父に対して、この生命の究極の擁護者としての母との官能的接触こそが、われわれが世界に抱く究極的信頼の源泉である。母こそが「陽気さとおしゃべりをする楽しみ」(ルター)を教えてくれるのである。

 今日、現実の父親と母親は、このイメージからはかなりずれている。子供が母親のスカートの下から引きずり出されて、父により社会化されていく過程が、そのまま個人が社会に統合されていく過程に重なる。しかし、今日、父親は不在がちで、母親が父親の役割を同時に果さなければならない。加えて、幼少時から学校などを通じて、社会が子供の成長に介入する。母親自身も高学歴になりつつあって、男と並んで競争に身をさらしてきた。果して、この変化が未来の父や母となるべき人々の世界に対する信頼にどのような影響を与えているか。

 一言では答えられない複雑な問いであるが、一つ考えられる答えはこのようなものであろう。今日の子どもたちは、世界から無条件に愛されているという自信を持つ前に社会に放り込まれる。そして、世界(当初は母によって象徴される)の愛をつなぎとめるために、彼らは魅力的で愛される存在でなければならないという教訓を学ぶ。母のお気に入りの子、精一杯聞き分けがよい子になろうとし、おめかしをしようとする。これがナルシシスト的な不安を産む。

 ナルシシズムの特徴は次のようなものらしい(クリストファー・ラッシュ、『ナルシシズムの時代』より。多少字句を改めた)。SNSではよくお目にかかるし、自分自身心当たりがある人が多いはずだ。

ナルシシズムの症状
・つねに他人に与える印象を計算して演出する
・賞賛を欲するくせに、そのために利用する人をバカにする
・内なる空虚を満たすための感情体験に飢えている
・年をとることと死を何よりも恐れている

試される愛

 ナルシシズムというのは母なるものの愛を渇望する衝動に結びついていると思われるのだが、これはナルシシズムには限らない。少し違った角度から、世界に愛されたいという心理的欲求を見てみよう。

 現代の日本男児には珍しくもないが、自分は他人に感情を見せることに心理的な抵抗がある。だから、感情の交流によって愛情を確認することが苦手である。それで、トム・ウェイツのこの曲のように、強がりな男が酒の力を借りて自分に感傷を許すようなものに弱みがある。こんなのが「癒し」嫌い男の癒しである。

 それでも人間だから愛を確認する必要を感じることもある。じゃあどうするかというと、おそらく子どもが母親の愛を試すためにわざといたずらをするようなことをする。自分がどこまで愛されているかを相手の愛情の深さを試すことによって確認しようする。こんなことが愛情の確認になるのは、母親は自分を絶対に拒絶しないという信頼があるからで、甘えの一種である。これを母親ではない人にやったら、いつかは愛想をつかされるに決まっている。

 だが、自分の世界に対する態度もまさにこれに近いものがあって、世界が自分を受け入れてくれていることを確認するために、世界に対してとことん破壊的な態度で接する。そのくせ、世界が自分を拒絶するであろうとは心の底ではちっとも思ってないから、本当に拒絶されてしまったときには過剰な感傷に耽りやすい。本当に世界に信頼を失っている人間であったら、ただ世界から自ら退去するか、黙って世界を破壊するであろう。

 そう考えると、批判的知識人などというのも、母の拒絶されない愛に包まれて育った部類の人間であって、心の底では世界に甘えたがっているんである。それだけではないかもしれない。通り魔やテロリストなど世界に怨みを抱いているような人々さえ、実は世界に絶望し切れていなくて、愛されているという徴をどこかに求めて愛を試しているのかもしれない。そうでなければ、黙って世界から立ち去っていけばよいのであるが、そうはしない。

 すべてではないだろうが、批判者、否定者でさえ実は世界の愛を試している存在であるとすると、そこにはいろいろな含意がありそうである。批判的言説、犯罪、革命、反乱などによって社会はその愛を試されているのであるとも言える。それに対して「甘えるな」というのは簡単であるが、甘えたがっているのは何も反抗する者だけとはかぎらんのである。

愛と正義の相克

 これを「父殺し」の話に差し戻せば、こういうことになる。神と同様、社会にも母性的なものと父性的なものが混在している。母性的な側面は愛と引きかえに愛を与えるもので、献身を無為にはしない。父性的な側面は善悪を厳しく区別するもので、役に立たない献身よりも仕事の成果によって子を差別する。

 だから、経済生活に救いを求める「現代宗教」もかつての宗教と同じ問題を孕むことになる。つまり、母性的なものと父性的なものが社会という同じ対象から期待されるという矛盾である。一方で、社会は愛に愛で報いる母たることが期待されているが、他方で無条件の愛を拒否する裁判官たる父の役割も果たさなければならない。

 だから、社会生活に入る前の青年は、確実に報いてくれるとは限らない父神に向かって献身を強要されるヨブのような立場に立つことになる。「あなたを愛し身を捧げれば、あなたも私を愛してくれますか」と神に問うても、「たぶん」とか「まあ、信じなさい。保証はしないけど」という答えしか返ってこない。これがまさしく大人の口を通して聞かされる社会の声である。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。