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根拠なき自信の根拠(母なるもの)

今日の年寄りには、自分に対する自信をさらに底から支える根拠なき自信というものが残ってる人が多い。これが若い世代では失われがちである。前々回にそういう話をした。この自信は世界に対する信頼であるとも書いた。よく走るジブリ少年にたとえたのだが、走って跳んだ先に自分を受けとめてくれる大地が必ずあるという信頼である。

これを自分はコズミック(宇宙的)な自己肯定感と呼んだ。何度か紹介してきた、○○教という名前がつく以前の宗教感情のなかにあるものとの類似性を強調したかったのである。だが、この呼び方が適当であったか否かは議論の余地がある。なんだか神秘めいたものになって、特別な資質か修養でもないと身につかないものであると思われたかもしれない。

だが、われらの世代も物心ついたらこれがあったのである。だから、この根拠なき自信の根拠は必ずしも宗教そのものではない。いくらありがたい教えがあっても、自分の経験に基づかないものであればお経にしかならない。騙されていたにしても、自分らの世代には何かこの根拠なき自信を根拠づけるような経験があったのである。それは何であったか。


母性原理と父性原理

ジブリ少年の比喩においては、跳躍した足をがっしと受けとめてくれるのは大地であった。せっかくだからこの比喩をさらに引っ張ってみよう。大地はかつて女神として表象されたという話を別の機会にしたことがある。万物を生みだしその生命を育んだ古代の神である。

この女神の声は「生きろ」というものであった。自分から生まれ出たものは善きものも悪しきものもすべて官能的な愛で包みこむのが母性である。この母性原理を象徴したのが大地の女神であった。

この女神をおさえて神々の頂点に立ったのが家父長的な男神であった。彼の原理は「生きよ。しかし価値なきものは滅せよ」というものであった。存在するものに良し悪しを認め、良いものだけを増やそうとするのが父性原理である。悪いものであれば存在の権利を認めず滅ぼすべきであると考える。これが猥雑で混乱した母系社会をより秩序だった合理的社会とすることを可能にした。そういう話だった。

母性・父性という名がついているので、この二つの原理はそれぞれ女と男の本性を語っていると思われがちである。だが、母性原理を男が代表してもいいし、父性原理を体現するような女がいてもいい。実際にそういう例がいくらでもある。自然な性差にそうした原理との親和性がなくもないが、必然的にそうなるというわけでもない。

ではなぜこれが母性原理・父性原理と呼ばれたかというと、やはり経験的な根拠があった。子育てにおける夫婦間の分業である。子どもに栄養を与え、官能的愛で包みこみ、甘えをゆるすのは母親の役割であると考えられ、またそういう理解に基づいて生きてる人が多かった。

これに対して、父は社会の期待を代弁する。子を一人前の社会の構成員とするための社会のエージェントの役割を果たすのである。別の言い方をすれば、「私」の領域をつかさどる母に対して、父は子と「公」の領域を仲介する役目も果たす。ヤヌスの如く父の顔は「私」だけではなく「公」にも向いている。だから、「公けの顔として子には厳しくあれ」というのが少し前のお父さんたちの義務であった。あまりに子煩悩な父は親としての役割を充分に果してないと受け取られた。

この理想上の男女間分業においては、母が文字通り子の果てしない落下に立ちはだかる大地である。子が父にせっかんを受けようが、先生に叱られようが、友だちにいじめられようが、母はいとし子を見捨てたりしない。傷ついた子をまた愛情でくるみ癒す。もちろん小言の一つや二つは言うだろう。だけど、最後には自分を受け容れてくれる。父の愛は条件つきであるが、母の愛だけは無条件に与えられるという確信を子は持つことができる。

もちろん、これはあくまでも一つの理想であって、そんな理想からは外れた家庭がいくらでもあった。おそらく例外を除けば、比較的恵まれた家庭に生まれついた子だけが、こうした理想に近い環境で育つことができたのであって、人類の大半は「完璧」とは言えない家庭で育ってきた。

だから根拠なき自信を持てない人々は昔から多くいたはずである。ただ、今日では、比較的恵まれた家庭に育っても自信をもつことができなくなっている。根拠なき自信を持っている者がいると、みんなでよってたかって壊しにかかるようなところがある。根拠なき自信を育む母性の領域の垣根があちらもこちらも破れている。昔と今という乱暴な二項対立が許されるのは、この区別が妥当であるかぎりである。

子育て分業の崩壊

そのような事態になったのは、一つにはイエ制度の崩壊と信仰の衰退があるのだが、これについては何度か書いたので、今回は別の側面に注目してみたい。それは子育てにおける父母の分業が崩壊したことである。父が不在がちになり、母が父親の役割も兼任しなければならなくなったという、よく聞く話である。

それが子どもの心理にどのような影響を与えうるか。推論にすぎないが、次のようにも考えられる。そうなると母はもう無条件に子どもを愛するわけにいかなくなる。成績が落ちたり、悪さをした子どもを責めるのはもっぱら母の役割になる。そうして育てられた子は、母の愛情を無条件なものとは感じない。自分がよい子、可愛い子、聞き分けのよい子であるかぎりにおいて、自分は愛される。それができなくなると自分は捨てられるかもしれない。そう感じるようになる。

同時に、父が不在がちであるから、母子の関係が親密になる。母が父と密約を結んで子にあたるのではなく、父に対抗する同盟軍として子を自分の陣営に引き入れる。心理的に、子が母に依存するだけでなく、母が子に依存するようになる。母は自分を見捨てた夫への復讐として、子を自分の理想通りに育てようとする。これが過度の介入につながる。さらに、母の夫への憎しみが、子においては社会的権威の象徴としての父への憎しみに転ずる。多くの子どもたちにとって父=社会=公の領域は蔑むべき、憎むべきよそ者となる。

この母の理想を理解し、その期待に応えない子は愛されない。これが今日多くの子が受けとるメッセージである。だから、小さい頃から愛想をふりまき、お人形さんのように小ぎれいにし、母の機嫌を伺うようになる。他人の目をはやい時期に内面化するのであるが、この他人の目は何よりも自分の生命を養う母の目である。子どもながらに生死を賭けた事業である。

むろん、この近代的家族像も一種の理念型である。現実にはいろいろな家族の形があるから問題も多様でありうる。こんな分業がはじめから不完全な家庭の方がむしろ数としては多かった。だから一概にこれが典型例であるかどうかは実証的な問題である。

これを実証することは自分の手に余るのであるが、すでにドラえもんの野比家に父の不在の傾向がみられるから、自分の世代も中間世代であるらしい。のび太の落下を支える存在は、父でも母でもなくドラえもんという夢に出てきそうな友人である。自分の世代のコズミックな自信なども相当ばらつきがあって怪しいものがあると思う。

自分を愛し他人を怖れる人々

ともかく、このような育てられ方をした人が陥りやすいのがナルシシズムという精神疾患であるらしい。

成長するにつれて愛情の対象が母から他者に移らずに、自己に転移してしまう。がんじがらめに縛られた自分を母の愛から解放し、自分自身を愛するようになる。それは母からとりもどされた自分である。だが自己に不安を抱く自我は自己愛の安定した地盤とはなれない。つねに他人の目を気にして、他人から注目されていないと不安になる。だが、この他人はまた蔑むべき父=社会でもあって、その愛情を無条件に期待することはできない。

となると、ナルシシストの不安とは、さきの比喩に立ち戻れば、跳んだ先に大地がないことへの恐れであるとも解釈できる。母の呪縛から自分を解放しても、母以上に頼りがいのない他人になおも頼らないと生きていけない。しかも若さが失われるにつれて自分の魅力もまた衰える。何もしなくても可愛い子でありつづけることはできない。そうなると、年を経るにしたがって自分の存在もまた縮小していくのではないかという予感を拭うことができない。年をとることを何よりも恐れるのがナルシシストの特徴の一つである。

こうして他人の承認をもとめながらも、他人を疎ましく感じる人々ができあがる。世辞や追従を厭わないが、心の底では他人を見下している。自分を愛する者を愛するが、自分に無関心な者は憎む。そして愛する者も心の底では信用していない。

そして、この他人が一般化されたものとしての社会に対しても愛憎半ばする感情をいだいている。それは尽くしても裏切られるかもしれないという不安、「ドラえもーん!」と胸に飛び込もうと跳躍した途端にソッポを向かれるのではないかという恐れから生ずる両義性である。

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