民族と民俗(アンソロポロジーとは) その二
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「アンソロポロジーとは」シリーズの第二回です。こんなタイトルをつけると、それを見ただけでもう縁のない話だと思われる方がいらっしゃると思いますが、実はそうでもありません。民族学、民俗学、人類学の専門家ではない人びとに読んでもらおうと思って書いているのがこの文章です。
自分もそんな学問においては門外漢ですから、学問分野の紹介が目的ではありません。自分は「人間」というものに興味がある。もっと「人間」を知りたい。漠然とでもそう感じている人を読者に想定しています。人間に興味のない人はそう多くはないと思いますので、多くの人に縁のある話ではないかと思っています。
第一回があまり読まれなかったのでこのまま続けるべきかどうか迷いますが、自分の研究ノートのかなりの部分はこういう話です。ここで遠慮したら、自分と一緒に墓場にもっていくことになってしまいます。何のために生きたのかわからなくなってしまいます。
それに何より、後世になって、「この時代の人間はまだ時代の制約から一歩も抜け出すことができなかった」などという評価を下されるのは悔しい。こんなことを考えてる人がいるにはいたということだけは、子孫に一つでも多くの証拠を残しておきたい。
そういうことで、ぼちぼち続けてゆこうかと思います。だけども、同時代人にも読まれないよりは読まれた方がよい。先回りになるんですが、なぜこんな話をわざわざするのかということをまず書いておこうと思います。
人間を知るための学問
さて、「人間を知りたい」です。みなさんがそう考えたとしましょう。そうして人間を知るための学問をやろうと思い立ったとしましょう。それで専門家の方々にどんな学問をすればよいのか尋ねたとしましょう。どんな答えが返ってくるでしょうか。
たぶんこういう答えだと思います。「あなたは人間のどんな側面を知りたいのかね。政治的側面なら政治学、経済的側面なら経済学、社会的側面なら社会学、生物学的側面なら生物学や医学・・・」
そこであなたはこう答えます。「いや、特定の側面ではなくて、トータルな人間を知りたいんです」
そうすると相手はきっとこういうでしょう。「人間って言ってもねえ。それは抽象的な概念であって、実際にいるのは日本人とか中国人とかアメリカ人とかだね。せいぜいヨーロッパ人だよ。そうなると歴史学とか地域研究だね。どこの国や地域の人間を知りたいかね」
でも、あなたはまだ納得が行きません。「わたしはあの国とかこの地域の人々のことだけを知りたいんじゃないです。人間一般について知りたいんです」
そうすると専門家の方々はちょっと困ったような顔をして、こう言うかもしれません。「そういうアバウトな話なら、文学部に行って哲学でもやってみたら」
しかしあなたはこう答えます。「私は本の中に出てくるような人間ではなく、私や私の周囲に生きる人々のように、実際に存在する人間について知りたいんです」
そこで、今まで黙っていた一人の専門家が口を挟みます。「欲張りだね、あなたも。そんなあなたにぴったりの学問がある。アンソロポロジーさ」
アンソロポロジーのというのは二つのギリシア語の組み合わせです。「アントロプス」は人間、「ロギア」というのは論理とか学です。だから英訳すればサイエンス・オブ・マンです(性差別用語なんですが、当時は女は不完全な男であると考えられていたんです)。だから日本語は人類学。
人間研究の分業体制
やはりトータルな人間理解を目的とする学問があるじゃないかと、あなたは喜びます。そして勇んで人類学の勉強を始めたとします。だけども、あなたはそこである発見をします。人類学の対象は「人類」であるはずなのに、不思議なことに人類全体ではない。人類のほんの一部しか扱っていない。つまり、かつて「未開社会」などとと呼ばれた社会を構成している人々です。
しかも、あなたが師事した先生は、その「未開社会」の中でも、○○国の△△地域に住む××族の研究をする人です。その××族については世界屈指の知識を有していますが、他の人類についてはちと理解が怪しいこともわかってくる。これで本当に人間がトータルにわかるんだろうか。
心配になったあなたは、人類学と隣接するような分野についてもう少し調べてみることにします。では、「未開」以外の他の人類はどの学問が扱っているのか。すると、つぎのようなことがわかってきました。
どうやら、現代の社会に生きる人々については社会学が担当しています。この人類学や社会学などをやる主体は現代社会に属していますから、次のようにも言いかえられます。つまり、社会学は自分たちの生き方の研究、人類学は他者の生き方の研究である。
ところが、このほかに民俗学という学問があることもわかりました。人類学はひと昔前に民族学とも呼ばれましたので、少しややこしいのですが、同じミンゾクガクでもこちらは他者ではなく自民族の文化を研究対象とします。しかし、それは現代の文化ではなく、地方の農村などに残存する古い文化です。むつかしく言うと、空間的には社会学と同様に自己の内省でありますが、時間的には人類学と同じく他者(過去の自分)を扱うということです。
この人類研究の学問的分業は、いろいろな事情があって崩れてきています。それでも、大学の学部や学位など制度化された部分がありますから、完全には流動化していない。どんな人間を対象として、それをどんな風に研究するかは、どの学問分野を選ぶかでだいたい決まってしまう。
「人間とは何か」なんて問いは、どうも大ざっぱすぎるようなんです。そんな問いを問う専門分野は存在しないらしいし、そんな問いに答えてくれる専門家もいない。みんな自分の縄張りがあって、そこで問われない問いはどこかで誰かがやってるんだろうくらいに思ってる。最後には文学とか哲学とか、その専門領域が分化してきた大本の学問あたりに投げ返してしまう。あなたにも、そういうことがわかってくる。
「そこに学問があるからやる」のか?
「なぜエヴェレストに登りたいのだ」と問われて、「そこエヴェレストがあるからだ(Because it’s there)」と啖呵を切った(?)のはジョージ・マロリーという登山家らしいです。潔くてカッコいいですね。
だけど「なぜ○○学を学ぶのか」と問われて、「そこに○○学があるからだ」というのはカッコよく聞こえない。なぜかというと、エヴェレストは自然の産物、神様が造られたものだけども、○○学は人間が造ったものです。誰かが盛った土の山を、そうとは気づかずに仰ぎ見るみたいに聞こえる。
「自分は人間に興味あるから人類学を学ぶんだ」というのはそれよりは立派な意見に聞えますが、実は五十歩百歩です。なぜ自分たちとは異なる空間的他者を研究することが「人類」とか「人間」を知ることになるのか。それを知らずに名前だけは「アンソロポロジー」であるようでは、詐称に近い。
だけども、これは社会学や政治学にも言えます。なぜ一部の人々の社会や政治だけを知れば「社会」や「政治」一般がわかると言えるか。
今日では学問の細分化が進んでしまって、こんな問いを考える学者は少なくなっています。そんなことを考えなくとも、すでにどこかで誰かが盛った山がそこにある。自分はそれを登ればよい。幸い、そうして飯が食っていける。それどころか、そこにある山に登らないと飯が食えない。オレにどうしろってんだ。専門家のホンネはこんなものです。
だけども、その山を最初に盛った人々が最初から人を騙そうとしていたわけでは、もちろんありません。そんな学問を人類学とか社会学とか呼ぶだけの理由があると考えた。実際には順序は逆で、人類とか社会などを独立の研究領域とするには、そういう学問独自の研究対象とか方法が必要であるんじゃないかと考えていった結果が、今日の専門学科(ディシプリン)です。
今日ある学問分野の多くが独立するのは19世紀から20世紀にかけてですから、今の学問的分業にはその時代の宇宙観や世界観が反映されています。宇宙や世界というのはこういう風に成り立っているという考えがあってはじめて、その宇宙や世界を知るためにこういう学問が必要であるという話になる。
この世界観や宇宙観がバラバラの学問の統一性を保証していたんですが、これが失われてしまいました。そうなると、もう各自が勝手に好きなことをやっているという風になってきます。でも、学問的分業を問わずに受け入れているということは、その古い世界観や宇宙観に慣習的に縛られていることでもあります。
人類学というのもまたこの例外でないんですね。それはやはり「人間をトータルに知りたい」という時代の要請に答えて出てきた学問です。そんな問いが発せられる土壌があったし、「未開社会」を対象とする研究によってしか解き明かせないと考える理由があった。後には、どこか遠くの○○族、人数からいったら人類のごくごく小さな一部のことしか知らない専門家たちの集団みたいになってしまったのは、この大きな問いを忘れてしまったからなのであります。
人類学って何の役に立つの?
人類学が一つの学問分野として認められて、大学に学部をもち、また本屋や図書館の棚に名札のついた居場所を確保しているかぎりは、それでもよかった。門外漢の人々の人類学への期待や関心は低下していっても、エヴェレストのように存在する以上、何か存在する理由があるから存在しているんだろうし、あるからには登りたい人もいるだろう、エライもんだ、くらいに思われていた。
しかし、政府が恒常的な財政赤字に悩まされる世の中になりました。そうなると学問への各種の「補助金」も見直されます。その際に、いったいこの学問は何をする学問なのか、という問いが改めて問い直されます。
これは日本に限りません。自分の米国留学中の話ですが、政治家によって勉強しても役立たない分野の例として挙げられたのは美術史と並んで人類学でした。美術史は前大統領の不注意な発言がきっかけでしたが、人類学は当時のある州の州知事によって槍玉にあげられました。
「これ以上人類学者を増やす必要があるって考える人、どれくらいいるよ?」というような発言であったように記憶しています。大学の予算削減に絡んでの発言であります。そうではなく、ビジネス・スクールとかロー・スクールとかメディカル・スクールとか、もっと需要がある分野に資源を配分した方がよいというわけです。
ビジネス出身の知事で、あまり学問に理解がなさそうな人であったんですが、たまたま彼の娘が大学で人類学を専攻しているから、子を大学に送る親としての発言でもありました。人類学なんていくら真面目にやっても仕事にありつけないじゃないかという不満でもあったわけで、これは多くの親子にも共感されるような話だったんです。
もちろん、これは人類学だけの問題ではない。彼の娘が政治学や社会学を専攻していれば、政治学や社会学が槍玉に上がったにちがいない。およそ社会科学とか人文学自体の「有用性」が問われる事態になっている。
当然、その学問で飯を食ってる人々から、いやカネにならない学問も必要なんだという反論が出てくるわけですが、その歯切れがどうも悪い。やはり自然科学の基礎研究みたいなことは言えない。人類学なんてのも、数百人規模のどこかの部族について知ればよろしいということであれば、それは結構だけど個人の趣味としてやってくれないかと言われても、反論しにくい。
それもそのはずで、「人間とは何か」といったような大きな問いを忘れて、方法論のような形式ばかりにこだわるようになった学問は、やはり何のための苦労なのかわからなくなるんです。もちろん、その問いを忘れずにいる人もたくさんいるんですが、タコツボ化した世界に閉じこもる人が増えている。だから、間違っても人類学者に「人間とは何か」なんて問いを投げ掛けちゃならないことになってます。
誤解されないように書き添えておきますが、自分は人類学など要らないと言いたいのではありません。方法論などなくてもよいなどと言っているのでもありません。そうではなくて、何のためにそんなことをするかという問いを完全に忘れてしまうと、いつの間にか惰性で要らぬ苦労をしているということになりかねない。そこにそういう学問が用意されてたからやってるというなら、無くしてしまえばやる必要がなくなってしまう。そういう伝統芸能化の危険が学問にもある。
もうそれで飯を食ってる専門家のみなさんにこんなことを言っても仕方ないかもしれませんが、これから学問を志す若い人たちには、後悔しないようにそれに気づいておいてほしい。○○学を選ぶときに、その学問を成り立たせた大きな問いもまた引き受けていることを知っておいてほしい。それでこんな話も無駄ではないだろうと思ったわけです。
もう紙数を越えてしまいました。今回はここまでにしておきましょう。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。