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イジメの陰湿化と世論

神戸の小学校での先生によるイジメが話題になっている。加害者の所業が非難に値するものであることに異論はないが、自分には「大人のくせに」とか「先生ともあろうものが」なんていう非難の仕方がひどく的外れに聞こえる。まるで「イジメ」がもともと子供の発明であって、ごく一部の不心得者の大人だけがそれをまねるかのような物言いなんである。

自分は決してイジメ問題の専門家を気取るつもりはない。だが、イジメによって自殺に追い込まれたり、そうでなくても人生を狂わされたりする人間が相当な数に上っており、自分の周囲にもそういう人たちがいる。親として、一市民として、自分の知っていることに基づいて問題を提出することまでは許されよう。

大人のイジメ

自分が神戸の教諭イジメ事件のニュースを見たとき最初に頭に浮かんだのは、漱石の『坊ちゃん』である。ずいぶん古典的なイジメだな、という感想を抱いたのである。自分もまた何度かイジメのようなものが行われるのを目の前にしてきたが、その多くは子供ではない。大人の間のイジメである。

今日、この「イジメ」という言葉には、本来区別すべきものが少なくとも二つ混じっている。少し年配の人が「いじめっ子」というような言葉で連想するのは、『ドラえもん』のジャイアンのようなタイプである。ちょっと腕っぷしが強くてクソ度胸のある人間が、のび太のような弱虫をイジメる。

だからといって、のび太は人生に絶望して自殺を考えたりしない。なぜなら、ジャイアンの所業は世論に支持されていない。しずかちゃんのような子が味方してくれるし、先生やジャイアンのお母さんなど外部の権威がイジメに気が付けば、やはり介入してくる。

それもなければ、のび太はただジャイアンの目のとどかないところに逃げればよい。家に帰ればドラえもんが待っている。学校生活は人生のごく一部であり、その外にも生活がある。『じゃりン子チエ』のマサルはもう少し現代的ないじめっ子であるが、この構図はほぼ変わらない。

大人のイジメは、これとはちょっとちがう。それはジャイアンのような個人の「いじめっ子」による横暴というものを越える集団的特徴をもっている。それは権威の位置に絡む社会関係の様相を呈する。だから、どこまでがいじめの主体なのかが明確でない。『坊ちゃん』でも神戸の学校でもリーダー格の者がいるが、彼らは大きな構造の中の一部でしかない。

通常はリーダー格の者に数人がくっついていじめを始める。これだけなら複数人が一人のジャイアンを構成するというだけで、子供のイジメとそれほど代わりない。しかし、今日のイジメを耐えがたいものにするのは、このイジメに直接関わらない人たちの行動である。

イジメが始まると、彼らは「いじめられっ子」に背を向けて見捨てるのである。恐らく、下手に関わると自分もイジメられかねない、というのが主な理由である。イジメ自体に対しては賛同していないかもしれないが、黙認する態度を示すのである。だから、こうしたイジメは子供のイジメとはちがって、むしろ「村八分」に近い。

空気を読む大人たち

大人による「イジメ」はこの世論の黙認を背景にしている。このようなイジメが成立するには、強い者、自分に害を与えることのできる者を識別し、周囲の空気を読み、自分の行為がもたらす結果を予測する人間が圧倒的多数を占めないとならない。

幼い子供は空気を読めない/読まないから、こうしたイジメが成立しがたい。必ずしずかちゃんのように自分を省みず余計な口を出す奴が出てくる。だから、自分の知るかぎり、まだ低学年の子供たちの間ではこのようなイジメはない。しかし、最近の子供は物覚えが早い。もう小学生高学年くらいになると、大人の真似ができる者が出てくる。彼らはもう「小さな大人」であり、われらが教育の優等生諸君である。

だから、自分は、子供のイジメが陰湿化している、というのは子供に妙な点でばかり主体性を与える物言いであると思う。そうではなくて、大人のイジメが低年齢化しているのであって、大人のイジメはもともと陰湿なのである。

そして、この陰湿さの大半は、直接の加害者というよりは、それを見て見ぬふりをする世論の方にある。今日の子供の生活は学校に押し込められているから、そこで世論に見捨てられると、まさに世界全体から見捨てられた形になる。これがイジメの被害者を絶望に追いやるのである。

だから、イジメに抵抗できずに自殺に追い込まれるような人が多くなったのは、人間が弱くなったとはかぎらない。「イジメられる方にも責任がある。なぜ抵抗しないんだ」なんて言える人はまだジャイアンのようなものを想像しているんであって、冗談じゃないと思う。同じような状況に追い込まれれば大の大人だって参ってしまうに決まってるし、実際に参っている大人がたくさんいる。

イジメの陰湿化を防ぐためには

そういうわけで、自分はイジメ問題を直接の加害者の人格や道徳的資質に還元してしまうような言い方は、むしろイジメ問題の本質を見失わせることになるんじゃないかと懸念している。大人自身の事なかれ主義や事大主義こそイジメを陰湿にする湿気の大元であり、それに気づかないかぎり、事が起きてから怒ったふりをするイジメ退治ごっこに終始すると思う。

じゃあ、どうすればいいのかというと、自分にも具体案はない。しかし、次のことだけは言えると思う。

ジャイアンを捕まえてきて、「こら、弱い者いじめをするな。強い者は弱い者を守ってやらなきゃダメなんだ」なんて説教するだけでは、今日のイジメ対策には足らない。私人には暴力の行使が禁じられた現代社会では、もはや腕力の強弱がそのまま社会的強者・弱者の基準にはならない。そうではなく強者・弱者も世論の消極的な支持によって社会的に構築される。今日の悪党は世論の消極的支持によってはびこるのである。ジャイアン一人を責めたところでなんにもならない。

恐らくイジメはヒト族の社会性に関係しているし(サルやイルカのような高等動物にもイジメはある)、その残酷さを助長する日本の文化的特徴にも関係している。互いによく知らぬ人びとを閉じられた環境に押し込めれば、イジメのような現象が起こってくる可能性は高いと思う。

それは自発的な社会秩序形成の一部であって、子供の自治能力訓練でもある。この子供の自治の世界においては、先生や親は昔の農村にとってのお上のような存在、つまり他人であって、その介入自体が歓迎されない雰囲気がある。

そうすると、たとえ悪人など一人もおらずとも、自然にイジメのない集団生活が形成されるなどとはとても望めない。今回の神戸事件は例外じゃなくて、自分ところの学校は大丈夫かと肝を冷やしてる校長先生が他にもいるんじゃないかと、自分などは疑っている。

また、ジャイアンのようないじめっ子とちがって、外からの強制だけではおそらくイジメを抑えることはできない。もし無理になくそうとすれば、それこそ監視社会の縮小版を学校に導入しなければならないであろう。

やっぱり最後は、自治を任す子供たちに、反抗の倫理みたいなものを教えなければならない。悪を黙って見過ごすことも悪である、時には人は負けるのを覚悟で反抗しなければならない、ということを信じてもらう以外にはない。しかし、それを子供たちに教えるためには、まず大人がそれを信じなければならない。教育者が教育されねばならない。

その課題から目を逸らして、子供と一部の不届きな大人にばかりその罪を被せているかぎり、増えるのは事後的な善人ばかりであると思う。

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