見出し画像

デモクラシーの人々

ぼくらは人にぶつかることが多くなってる。働いていても、街を歩いていても、ネットを徘徊していても、イラっとさせられる光景に出会う。それで、他人の言うこと、やることに口を出したくなる気持ちを抑えられない。愚痴や小言がつきない。

ドストエフスキーの『地下からの手記』にこんなエピソードがある。

主人公がいつも通りで見かける軍の将校は明らかに貴族の出である。周囲を見渡すこともなく、常に真っすぐ前だけを見て込み合った通りを闊歩して行く。でも、彼がよけなくても、周りの人がよけてくれる。それで彼の進む先は波が引くように人ごみが割れていく。彼はそんな気遣いに気付くそぶりも見せず、自分のために開かれた空間を当然のことのように歩いて行く。

平民出の主人公はこんな尊大な貴族の態度が嫌いなのだが、彼がやってくるとやっぱり道を譲ってしまう自分自身にさらに大きな嫌悪を抱いている。今度こそは何があってもよけないぞと決心して、ある日、決死の覚悟で歩いてくる貴族に正面から向かっていく。

でも、予想に反して相手は全く動じない。それどころ、いつも通り真っすぐに大股で歩いてきた挙げ句に、主人公の肩にドスンとぶつかり、また何事もなかったように歩き去ってしまう。主人公は余計に悔しがるしかない。

以前に「市民的無関心 (civic indifference)」という話をしたが、こちらは「貴族的無関心 (aristocratic insouciance)」である。場所を共有する平等な市民が気をつかって互いのプライベートな空間を尊重するのではなく、優れた者が劣った者を全く存在していないかのように扱う。貴族には世襲の財産と地位があるから、人に頭を下げる必要がない。遠慮する必要がない。だから自由にふるまえる。

民主社会に生まれ育ったぼくらには理解しにくいのであるが、貴族制の原理は血統の優劣である。貴族は生まれながらにして優れているのであり、はじめから競争などする必要はない。劣った血が流れている平民など道に落ちている石ころみたいなもので、感謝する義理もなければ腹を立てる価値さえもない。寛大に無視して、邪魔ならどければよいだけの存在である。

幸か不幸か、民主社会の産物である我々にはこんな高貴で尊大な無関心は期待できない。むしろこの主人公のように自意識過剰で、常に他人の目を気にするくせに(というより、するがゆえに)妙に面の皮が薄い。些細なことに自尊心を傷つけられ滑稽なくらいに過剰に反応してしまうくせに、他人のことにも首を突っ込みたい。

でも、そうだからこそ、無関心を装いながらも、実は自分の事情をわかってもらいたいし、己の価値も認めてもらいたくて、他人に話しかけてしまう。互いに警戒し、嫉妬し、足を引っ張り合いながらも、道連れがないと不安になる。

よくも悪くも、民主社会というのはこうした人々の集まりなのだと思う。他人を必要とするから、他人の目が気になる。見ないふりして他人を注視してる。でも、だから他人に気を遣うようにもなるし、互いに干渉したくなったりもする。まずはこの事実を認めることが、互いに満足のいく関係を築く付き合い方を考える前提になるのだと思う。

(2011年3月11日)

ヘッダー画像元:By Konstantin Trutovsky - https://www.md.spb.ru/dostoevskij/biografiya/#gallery-1, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19695362

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。