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ゆるせないことをゆるしてやるということ

先日書いた「やさしさ」に関する日記(以下リンク)の続き。

なぜ赦すのか

前回は、現代社会では「やさしさ」というのがスピリチュアルな領域に押し込められているというのが結論だった。そこで、今回はイエス様のお話。イエス・キリスト(救世主イエス)ではなく、歴史上の人物としてのイエス(ナザレのイエス)の話である。イエスその人は宗教家であり神の国の到来を予言したのであるが、私にとって興味があるのはモラリストとしてのイエスである。

イエスは自分の教えを書き残さなかったので、今日残されている彼の教えは彼の弟子や後世の人たちが書いたものである。キリスト教の教義というのはイエスの教えのみならず、ギリシャ哲学やローマ法などにも影響されているし、時の世俗権力と教会の同盟を正当化する必要から、イエスの教えからは逸れてしまったきらいがある。

そんな後世の人たちが付け加えた教えを除いていくと、モラリストとしての彼の教えの根幹にあるのは「赦し」であると言える。この「赦し」というのは「やさしさ」と密接な関係にある。

「目には目を、歯には歯を」という当時の常識に対して、イエスは「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」と教える。お前はマゾかと言いたくなるけど、そういうことではない。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。