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エロい経済学

割引あり

経済はエロくない?

学問というものはたいがい色気のないもの(あるいは色気のあるものを解剖して台無しにしてしまうもの)でありますが、経済学などという学問はとくに色気がありません。経済学の教科書を読んでも、需要やら供給やらの抽象的な概念、意味がわからん記号やら無味乾燥な数字が並んでるだけで、ちっとも肉体をもつ人間が登場しない。だから欲情しようにもしようがない。

あたりまえだ、経済学の教科書をエロ雑誌とでも思ってるのか。そう思われるかもしれませんが、よく考えてみると、実は不思議な話であります。というのも、経済学の対象となる「経済」なるものは、人間の欲望を満たす領域であります。ですから、欲望する人間がいないと成り立ちません。その欲望にはいろいろなものがあるんですが、まずはエロティックなものがあります。

などというと人間を貶めてるように聞えるかもしれませんが、自分がいうのは性の商品化とか性産業にかぎられません。マルクスが言ったように、精神的な欲望を満たすにしても、まずは欲望をもつ人間が存在していなければなりません。人間が存在するには肉体的な欲求を満たす必要があります。まずは食う。だけども食っていてもいつかは死んでしまう(つまり存在しなくなる)から、死ぬ前に子を産み育てておかないとならない。子を産むには男と女が互いに求め合い、交わらないとならない。これをずっとやりつづけなければ、人間は存在しなくなる。われわれの毎日の生活、そしてそれに伴う痛苦の大半は、この営みに関わるものです。

すなわち、エロスは経済というものが存在しうるための前提条件であります。経済学はこれを否定するわけではありませんが、エロスを自明のこととみなして問題化しないんですね。どういう風にエロティックな欲望が満たされるかは、他の専門家に任せてる。専門用語でいうと、外的要因、経済の外にある変数として扱っています。

ところが、今日の先進国のように少子化が進みますと、この自明の前提が怪しくなってきます。男と女は放っておいても交わり、勝手に子を産み育てる。それは経済によっても影響されないし、経済にも影響しないかたちで、自律的に行われる。そう考えることができなくなってきています。むしろ、経済という領域の根幹にかかわる問題として、エロスの問題が浮上してきています。

その結果、政府も私人の閨房に入りこむ必要を感じている。好きな人を見つけて交わって子を作る(あるいは作らない)ということが、純粋にプライベートの事柄ではなくなって、公けの政策の対象になってきているんですね。もちろん、無理強いして子を作らせることはできないんですが、子を作るような誘因を与えることを考えるようになっている(たとえば、子を作らない者から作る者に富を再分配するような課税といった形で)。将来は、結婚紹介所もハローワークみたいに公共事業になるかもしれません。

実は、国家が人民の性生活に干渉するのはこれがはじめてではないんですが、「経済」というものをまずは経済学を通じて見ることに慣れてしまったわれわれには、ちょっと新しい事態に思えるわけであります。そこで不思議になるのは、経済学という学問は、なぜエロスを経済から放逐してしまったのか、ということです。

しかし、その前に、経済とエロスの関係について、小説を題材にもう少し明らかにしておきましょう。なお、ここでいうところのエロスには、なにも深遠な哲学的意味はありません。交わるために男と女が互いに魅せ魅せられるという、通俗的なエロの意味に近いものです。

経済と欲望する人間

トマ・ピケティという経済学者が書いた『21世紀の資本』という本ありまして、分厚い経済学書なのに十年くらい前にベストセラーになりました。先般、私も図書館の書棚にこの英訳を発見しまして、遅まきながら流行に追いついてみました。

ピケティという人は、抽象的な数学モデルづくりに勤しむのがいっとう高等な学問と考えがちな今日の経済学に批判的な人のようです。経済学者には珍しく(?)、バルザックとかジェイン・オースティンなどの小説なんかも読んでいる。しかも本業から切り離された趣味娯楽としてだけではありません。経済学者ならではの視点から、人間が抽象された経済学理論とわれわれが体験している経済的現実とのあいだの乖離を埋めるのに役立つ洞察を、小説から引き出してくる。そういう柔軟な知性の持ち主であるようです。それが面白かったので、自分もいくつか彼が著書で引いていた小説を手にしてみましたが、期待を裏切られませんでした。

たとえば、ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』には三人の姉妹が登場します。次女は資産家の貴族に見初められて、持参金以上の価値のある配偶者を得て「レディー」と呼ばれてる。長女は聖職禄のある牧師と結婚して「ミセス」になる。三女は海軍大尉と恋愛結婚して、子だくさんの貧困にまみれて、家族の面汚しになってる。同じ姉妹であっても、結婚する相手の資産よって後の運命がこれほど変わってしまうんです。

ヘンリー・ジェイムズという人の『ワシントン・スクエア』では、たいした資産をもたず、美貌と機知で人生を切り開こうとする青年が出てきます。そして、資産家の一人娘に言い寄ります。しかし父親はこの青年を認めない。結婚すれば遺産は娘に残さないと言い渡します。そうなると、父親の反対を押して結婚しても、持参金が一万ドルしか入ってこない。知性にも器量にも欠けるキャサリンは、年三万ドルの収入を生む持参金つきだから愛せる。一万ドルだと足りない。

結婚が愛情だけではなくて経済問題であった頃の話なんですが、それには当時の経済が背景にあります。19世紀と言えば近代資本主義が離陸した時代ですが、経済成長率は20世紀のそれの半分です。そして国民所得のうち労働の取り分が小さい。ということは資産を持っていないと、いくら寝食を忘れて働いたところでたいした生活水準に達しない。親から継げない者にとっては、資産をもつ配偶者を獲得できるかどうかで、人生が決まってしまう。結婚は愛さえあればということになりにくかった。結婚はしないとならないけど、誰とでもというわけにいかなかった。

たとえば、当時は資産をもった年寄りの男に若い娘が嫁ぐというのが普通でありまして、フランスではこれを「理性による結婚」などと呼んだらしいです。金に飽かしてさんざん遊んだ男が、老境に至って妻を求める。若い娘は資産を目当てに老人と結婚するんですが、何年か我慢すればじじいはくたばる。そうなれば、資産を受け継いで、若い愛人でもなんでも囲って好き放題暮らせる。資産をもたない野心的な青年は、そういう年増の女の愛顧を得られれば、資産と社交界へのつながりという出世のきっかけをつかめる。三方よしの合理的な結婚であるという意味です。

ところが、『マンスフィールド・パーク』にも『ワシントン・スクエア』にも、やっかいな伯母というのが出てきます。前者では、亭主に死に別れた長女が二女の家の世話になっている。後者では、やはり亭主に死に別れた亡妻の妹であったかと思います。この「おばさん」たちはいろいろとおせっかいを焼いては問題を大きくしていくトラブル・メーカーで、みんなからうるさがられている。しかし、当人たちは、自分たちこそがこの家族のなくてはならない道徳の後見人であり、良心の代弁者だと自負している。

この場合は、二人とも結婚して配偶者と死別したんですが、たいした持参金を用意できないがために良縁にめぐまれなかった「おば」たちが、兄弟姉妹の世話になっているということが、19世紀には当り前であったらしいんです。ジェイン・オースティン自身がそういう一人であったようですから、たぶんミセス・ノリスのような人の心理がよく理解できたし、読者の方もすぐにピンとくるようなキャラなんですね。

これは女だけの問題ではありませんで、イギリスでは長子相続が慣例ですから、次男、三男などは長男になにかあったときのための予備軍です。なにもなければ、自分で食っていく仕事を見つけなければならない。法律家になったり軍人になったり牧師になったりする。『マンスフィールド・パーク』のエドマンドという次男は、一生懸命勉強して牧師になります。放蕩息子っぽい長男とちがって、思いやりも教養もある真面目な青年です。彼のばあいは聖職禄を貴族の親から譲り受ける恵まれた事例なんですが、それでも互いに好意を抱いている贅沢好きの女との結婚を諦めないとならない。

どうやら近代文学の担い手には、こういう「怠け者の法定相続人」ではない次男とか、持参金がなくて良縁に恵まれない娘たちが多そうです。ある程度の資産のある家庭に生まれついて、教育も受けているけど、家督は相続できない。ですから、自分の価値は生まれや所有する資産の量ではないと信じたい。「私」自身が悩み苦しみ培っていく道徳的判断力こそが、人間の価値を決める。ということで、彼らにとっての「(上流)社会(かつては下層は社会の一員とはみなされなかった)」は富の王国ではなく、信仰、規律、教養の王国です。富の必要も否定されませんが、この後者を可能にするかぎりにおいてしか尊ばれない(下層民の罪は貧しいことではなく、貧しいがゆえに信仰、規律、教養がなおざりにされる点にある)。

こういう牧師(オースティンも牧師の娘)や結婚しないおばなどの王国から、イギリスの(上流)社会という狭い世界を愛情と皮肉を込めて眺めると、どうやらオースティンの小説のようなものになる。ですから、この王国における理想の恋愛や結婚というのも、金勘定を度外視した、純粋にスピリチュアルな結びつきが強調されます(たまたまおカネの問題も解決されて大団円になるのがお決まりのパターンですが、それは道徳の勝利であって金勘定の勝利ではない)。だけども、表向きは否定されてる肉欲が、スピリチュアルなものの奥底に隠されています。いっしょになってもろくなことにならんとわかってる二人が、これほど互いに求め合う以上は、肉欲以上のなにかに祝福されているにちがいないという形でエロスが聖化されてる。

結婚すべきかいなか。するならいつ、どのような人とするか。子を持つべきか。持つなら何人か。今ではこのような問いに対しては個々人がそれぞれ自由に答えを出すことになっているんですが、その選択には経済的な帰結が伴います。そして、その帰結を考慮に入れて判断する理性がエロスの領域を統御する程度において(そうするように親や社会は子どもたちを教育したがります)、個人の判断の帰結がまた経済へとフィードバックしていきます。

などというとむつかしく聞こえるかもしれませんが、たとえば、資産がなく収入も安定しなければ、人は子を作ることを躊躇します。たとえ愛があってもです。というより、パートナーや子に対する愛があるからこそ無責任には子が作れなくなる。ですから、肉欲は他の方法で処理することにして(主に既婚の男の気晴らしであった性産業が、結婚の代替物としての新しい意味を帯びます)、結婚にはコミットしない人が増えます。出生率の低下は愛がなくなったからではなくて、愛とエロスが分離してしまうことから生じる。そういう風にも考えられます。今日、多くのひとにとって他人事ではない経験ではないでしょうか。

ちょっと長い説明になりましたが、要するに、経済学の教科書の世界と違いまして、現実の世界においてはエロスと経済はお互いに複雑に絡み合ってるという話です。この関係が経済学者の宇宙にだけ浸っている者にも、文学者の宇宙にだけ浸っている人にも見えない。この二つの宇宙を行き来する柔軟な知性がないと、経済とエロスをつなぐ「と」が見えてこない。そういう話であります。

経済学のなりたちとエロス

さて、「なぜ経済学はエロスを放逐してしまったのか」という問いに話を戻しましょう。実は、日本で近代経済学と呼ばれている学問の成立(19世紀のことです)には、エロスの問題が深くかかわっています。経済学の古典の一つに、マルサスという人が書いた『人口論』なる書物があります。土地の生産性はパーセントでしか上昇しませんが、人口はネズミ算式に増える。だから、人口が増え続ければ、食糧が不足して価格が上がる。そうなれば、賃金も上昇する。賃金が上がれば、その分資本の取り分が減りますから、投資も行なわれなくなる。経済が停滞する。

つまり、資本主義がいくら富を生み出しても、エロスがもたらすそれ以上の生命の繁殖によってすぐに食いつくされてしまうんですね。ですから、マルサスは禁欲による人口抑制策を提言します(彼はプロテスタントの牧師でもあります)。産児制限であり、間接的に性交渉の制限であります。そうしなければ、戦争とか飢饉みたいなかたちで、自然が無理に間引きがを行なわせるようになる。マルサスは、そういう究極の選択を迫ったんですね。

このマルサスの悲観論に、リカードゥというもう一人の古典経済学の祖が反論をいたしました。確かに土地の生産性は少しずつしか上昇しない。しかし、彼の生きた時代は産業革命が進行中でして、土地と労働のほかに、資本という生産要素の重要度が増していた。この資本とはおカネのことではありませんで、科学がもたらした新しい技術を用いた工場などの生産設備などです。土地を必要とするかもしれませんが、その生産性は土地には依存していない。

ですから、生産における土地への依存(そして間接的に労働への依存)を減らして、資本の役割を増大していけば、マルサスの罠から逃れられる。少なくとも、時間を稼げる。そうして、経済学というのは資本集約的(労働ではなくて資本を多く用いるという意)な経済を目ざす学問になりました。現実の経済も土地に依存する農業の占める割合が低下して、商工業が興隆いたしましたから、時代の動きにも見合っていたわけです。

ところが、その過程でエロスの問題は隅っこの方に追いやられたわけであります。マルサス的な人口過多の懸念は続くんですが、放っておいても人をうじゃうじゃと繁殖させるエロスは所与のものとして、むしろ人為的な抑制の対象とされたんですね。

エロが当たり前だった時代

われわれの考え方もその延長線上にありまして、邪魔が入らなければ、男と女は自然に交わって、人口は増えていくものだと思っています。人口減少というのは異常で例外的な現象に見えます。だけども、うちの母(まだ存命です)が生まれた頃の世界人口は20億くらいです。それが、今は70億に増えてる。日本の内地人口は約7千万でして、これが1億3千万近くに増えた。世界人口の増加率と比べると見劣りしますが、日本の人口増加は母が生れる前から始まっていましたから、明治維新あたりは3千万人です。4倍近くに増えたわけです。

一人の人間が生きてるあいだにでさえ、これだけ増えた。人類の誕生以来このペースで増えていたわけがない。そうであったら、もうとっくに人間は地球からあふれ出してるはずです。史料が限られていますから確言はできないんですが、人口学者たちによれば、平均すれば、人類の人口は近代以前にはほとんど増えなかったらしいんですね。ですから、過去200年の経験が異常で例外的な状況で、説明を要するんですね。

むろん直接の原因は医療や栄養の改善で死亡率が低下しても、出生率が高止まりしたことだと思われます。だけども、もし増加する人口を社会が吸収できなければ、そんなことが長つづきするわけない。限られた資源の奪い合いになるはずで、実際に人口過剰というのが大きな戦争の口実に用いられました。それにしても、二つの世界大戦にもかかわらず、人口は増え続けた。だからどうやって増え続ける人口を社会が吸収しえたのかという問いが残ります。

途上国では事情がちょっと異なるんですが、人口急増はだいたい産業革命の後に見られる現象ですから、産業革命がひき起した社会変動と関係があると思われます。多くの労働力を吸収しえるようなかたちに社会構造が変化したのだと思います。家督を継がない次男、三男、持参金のない娘たちでも、独立した世帯がもてる機会が与えられた。それによって、抑えられていたエロスが解放された。同居する「おじ・おば」の数は劇的に減ったと考えられます。これが資本蓄積のタイミングとうまくかみ合うと、高度成長という平均の二倍、三倍の成長率がしばらくは続く。半分は人口増、半分は生産性の向上によるものです。資本の量的な増加による労働需要が、労働節約効果を上回るんですね。

しかし、いったん社会が変わってしまうと増加率は鈍って、最後には安定あるいは減少に向かう。これは日本や韓国だけではなく、先進国一般の傾向です。おそらく産業革命後の人口爆発というのが、一過性の、繰り返しのきかないものだったんです。

ですから、エロスに任せておけば人間は増え続けるというのが、臆断であったようです。実際には、人が子をもつか否かは社会環境によって影響されるところが大きい。経済学というのは19世紀に先進諸国で形成された学問ですから、人口増加を自明のこととして、それから生じる問題を克服するような問題設定をしちゃった。ですから、人口が減少するような場合を想定してなかった。それで、エロスをめぐる葛藤は文学者なんかに任せてしまったんですね。

経済学に残るエロス

では、経済学にはエロスの要素がまったくないのかというと、そういうことでもありません。自分がひとつ気づいた(そして、多くの人も指摘している)のは、資本が利子を産むという比喩(?)です。利子に「子」という漢字が入っているのは偶然ではありませんで、投資された元金に子どもが生まれて、その生まれた子どもは元金の所有者のものになる。奴隷所有者にはおなじみであった発想がその裏にあるようなんですね。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。