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中学生のぼくがみた闇

中学生の頃、夜寝ながら自分の進路のことを考えたことがある。どの高校に進学するかから始まったのだけど、高校を決めるには大学、大学を決めるには就職先、なんてどんどん話が大きくなっていく。

そのうち、自分は何の為に生まれたのだろう、自分の人生に課された「使命」みたいなものがあるのだろうか、なんて考え始めてしまった。しかも、当時竹内均という物理学者が編集していた『ニュートン』という科学雑誌を読んでいたせいか、宇宙の始まりにまで考えが及ぶに至る。

宇宙の広がりおいては地球の存在なんて点以下だし、宇宙が始まって、太陽系が出来上がって、地球が出来て、生物が生まれ、なんて考えていくと、人類の存在する期間なんて瞬間にしか過ぎない。

そんな気も遠くなるほどの空間と時間の枠組みで考えると、自分の存在がいかにちっぽけなものか思い知らされる。自分がどんな人生を送ろうかなんて問いはおろか、我々が普段汲々としているもの(お金、名誉、愛情など)とか、果ては国の盛衰さえどうでもよい問題に思えてくる。

もし宇宙を創造した神様なんていうのがいれば、我々なんて宇宙の辺境の星に生じた有機物くらいの意味しか持っていないんじゃないか。そう考えて、何か見てはならない深遠な闇の底を垣間みたような気がして恐くなったのを覚えている。

『幼年期の終わり』

この間、SF作家アーサー・C・クラークの「Childhood's End(幼年期の終わり)」という小説を読んで、同じような恐怖を感じた。

突如、地球上に現れた宇宙船。圧倒的な科学力により地球を支配下に置く。しかし、overlords(「神」もしくは「お上」)と呼ばれる異星人は「善政」を敷き、地球から戦争や犯罪、その他の残虐な行為を一掃し、世界連邦を形成し、科学技術を一気に進化させ、人類に繁栄をもたらす。

その代わり、人類は文化とか芸術といった独創的な活動に対する意欲を失う。人類の欲望がすべて満たされた以上、創作活動の意義も消えてなくなってしまったかのように。人類はoverlordsの統治を歓迎するが、一部には「自由」の喪失に不満を抱きoverlordsの意図を疑う人たちもいる。

でも、overlordsの本当の目的は実は別のところにあって、最後は人類の宇宙における存在意義というのが明かされる。言うなれば、人類が問いつづけてきた「究極の真理」がようやく人類の目に明らかにされたのだ。でも、それによって、人類が今まで大事にし、互いに争ってまで守ってきたものが全て無意味であったこともはっきりしてしまう。

『悲劇の誕生』

日本に来る飛行機の中で読んだニーチェの『悲劇の誕生』。こんなギリシャ神話のエピソードが紹介されている。ミダス王は半人半獣の森の精シレノスを捕え、人間にとって一番望ましいものは何かと問いただす。シレノスは応えないのだが、王に促されると、甲高い笑いともに次のように言い捨てる。

「お前さん方がいちばん知らなくてもよいことを俺の口から言わせるのかい。人間にとっていちばん望ましいこと?それはお前さんたちの力じゃどうにもならないことだよ。つまり、この世に生まれてこないこと、存在しないことだ。それがダメなら、次は早く死ぬことだな。」

古代ギリシャ人というのは西洋文明にとって常にお手本な訳であるが、それは彼らが人類史上もっとも幸せな人たちであったという神話があるからだ。

ニーチェは『悲劇の誕生』でギリシャ悲劇の生成の過程を追いながら、この神話を覆そうとする。ギリシャ人の一見楽観的な気性の根底には、実は自分たちの存在の無意味さ、ばからしさの認識があるというのだ。ギリシャ人たちは日常の生活をこんな堪え難い「究極の真理」から隔離するために、芸術を発達させる。

ひとつはアポロに象徴される芸術、もう一つはディオニュソス(バッカスというローマ名の方がよく知られているかも。シレノスはディオニュソスの養父とされる)に象徴される芸術である。

ニーチェはアポロ的芸術を「夢」に例える。それは調和の保たれた美しい「幻想」である。人々はそれを「幻想」と知りつつも受け入れる。典型的なのがホメロスが語る「ギリシャ神話」である。でも、「幻想」である以上、それは「節度」をもって受容されなければならない。さもなければ「神話」と「現実」の境界が崩れてしまう。そういう訳で、アポロはまた個人に「己の分際を知れ」と教える個人主義の神でもある。

一方、ディオニュソス的芸術は「陶酔」や「恍惚」のメタファーによって現される。それはお祭りで人々が自分の分際や社会的地位を忘れ、一体になって踊り狂っているような状態である。そこでは「節度」ではなく「過剰・逸脱」が求められる。「己を捨てよ」というのがディオニュソスの命令なのだ。アポロの「夢」が厳しい現実にベールをかけることにより日常生活を守るのに対し、ディオニュソスの「陶酔」はむしろ日常を脱して、自然と一体になって生きる苦痛も快楽も共に受け入れるのだ。

このディオニュソス的芸術というのは、我々現代人が普段奥底に封じ込めている根源的な暗闇みたいな部分に訴えるもので、ちょっと恐い。そこでは個人の間の境界線が完全に消失し、人々は一体となって母なる自然に回帰する。そうすることにより、自分たちの存在のはかなさを忘れる事ができるのである。

個への愛着と全体への埋没

先のクラークの小説の最後の部分に、まさにこのディオニュソス的な場面が出てくるのだが、「個」を捨てきれない現代人にはちょっと恐い。我々は自分や自分の大事にする物の個別性、特殊性を愛する。私自身は唯一無比だし、うちの猫はどの猫とも違うし、私が生まれた故郷は世界に比類無きもの。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。