そして女は魅力的になった

「恋愛の神聖と女性の女神化」の続編です。

かつては悪魔が男を堕落させる手段のように警戒されつつ蔑まれていた女性というものが、人間と自然とのつながりを回復する女神の化身のようなものになった。そうして市井の女との恋愛もまた神聖なものになった。そういうお話でした。

男にとっても女にとってもハッピーエンドかと思うのですが、今日の恋愛状況に鑑みると、必ずしもそうではない。ちがった悩みが増えていて、男女それぞれに苦しんでいる。それで男女の仲が悪くなってる。女性の女神化と恋愛の神聖化は、男にとっても女にとっても、思わぬ副作用を持ったようなんです。であるから、もう一度、この女性観、恋愛観を見直さないとならないんではないか。そう思って書かれてるのがこの文章です。

文学史における女性

話を続ける前に、二つ注意書きです。まずは用語の問題です。日本語では、「女性」という抽象名詞が女の人の敬称(?)になっています。であるから、女性らしさという抽象的なものを言い表すのに「女性性」というなんだか打ち間違いのような日本語を使わないとなりません。自分はそうする代わりに「女性」を抽象名詞としてもっぱら用いて、生物学的個体としては「女」という風に使い分けています。呼び捨てにしてるからといって、女の人たちを蔑視してるわけではありません。

第二に、このシリーズは、男が女にどのようなイメージを押しつけていったかという歴史を、文学史から読み解こうとするものです。男が女をこう見ていた、恋愛をこう考えていた、という書き方になっているのは、女はただされるがままに男に作り変えられてきたと言いたいわけではありません。女が男をこう見ていた、恋愛をこう考えていたという歴史もあるはずですが、文字文化では最近までは男が支配的であったので、文学史に頼ると多かれ少なかれ男の視点からの歴史になってしまうというだけの話です。

では、なぜ文学を素材にしてに恋愛の歴史を書くのかというと、それなりの理由があります。今までにない新しい女性観が形成され、それに従って恋愛の形が変わっていくのに、やはり文学の力が大きかったのではないか、と自分は思います。誰かが実践しているのを文学が取り上げたというよりは、まず文学で造形されたイメージを読んだ人が真似する。それが恋愛革命につながったという方がありそうな話である。

前回の記事で宮崎湖処子や柳田国男の恋の話をしましたが、もう一つここで例を挙げてみましょう。たしか島崎藤村の自伝的な小説『春』であったと思うのですが、こういうエピソードがありました。細かい点は記憶が怪しいんですが、主人公の友人の一人が箱根かどこかの温泉の若い女中に恋をする。しかし、その親がどうしても認めない。そこで主人公らが友人の家に行って、母であったか伯母であったか忘れましたが、説得しようとします。

どういう説得かというと、男女のつながりというものは精神的なものである、そこでは家柄とか学歴などというものは関係ないのだ、女中であっても心が清純であれば貴いのである、当人同士がこの人が自分の失われた片割れであるなと直観すればそれだけで十分である。そういう西洋文学で学んだようなことを金物屋かなんかのおかみさんに諭そうとしたようなんです。

こんな言葉は前にも話した近代の言語で、自我というものを前提としています。おかみさんの方はそんな言語に接したことがない。結婚というのは個人ではなくイエとイエとの関係だというのが当時の常識です。せっかく学校にまでやって育てた息子を旅館の女中なんかといっしょにするなんてとんでもないと思っているから、相手にもされない。

結局、この話はうやむやになってしまう。そもそも、恋した当人が、たぶん西洋文学に出てくるような恋を真似したいから女中に恋したような面がある。駆け落ちするほどの度胸もなさそうである。恋人にされた女中とどこまで話ができていたかも怪しい。

それでも、新しい男女関係が文学を通じて普及していくにつれて、同じような光景があちこちで繰り返されるようになる。女もまた文学に親しんで、そうした女性像に憧れる人が増えてくる。そして世代交代が起こると、男女のあいだのつながりは精神的なものであるということが当たり前のこととして受け入れられるようになる。

今日では、好き合ってる者同士を引裂くというのは、よほどのことがないかぎりは親でもしないですね。文学の普及がなかったら、果してこれほどの変化が短期間にありえたかどうか怪しいんではないかと思います。

ロマン主義文学の女性像

さて、男は一方的に自分の願望を女に投射して、理想の女性像みたいなものを作り上げる。これはよく知られた事実ですね。自分も以前に何か書いたことがあります。

上の記事でも少し触れたのですが、自分が今まで調べたかぎりでは、今日の男が抱く女性の理想像の原型は、19世紀初頭のロマン主義文学の影響を強く受けているようです。若き日のゲーテもロマン主義に大きな影響を与えていますから、この点ではゲーテの延長線上にあるといってもいい。

フリードリヒ・フケーの『ウンディーネ』(1811年)というロマン主義小説などを読むと、今のマンガやアニメにでてきてもおかしくないような女性キャラが見え始めます。アイヒェンドルフの『航海』などには「もののけ姫」みたいなキャラも出てきて興味深い。どうも、ぼくらが今日親しんでいる女性キャラの原型の多くはこの辺に先祖をもつらしい。

ロマン主義文学というのは、メルヒェン、つまり空想上の中世を舞台にしたものが多いです。今日のファンタジー小説の原型ですね。ただ、アイヒェンドルフあたりになると、中世が舞台の話が多いんですが、幻想の世界はさらにその向こうにあって、登場人物である騎士たちなんかはむしろぼくら読者が属する日常の側に属する。そして、さらにその向こうに水の精とか魔法使いなどが住む日常を超えた世界が垣間見える。そういう構成になっています。

その非日常の世界の仲介者として女性が用いられる。これには二つタイプがあります。一つは、ゲーテのフリーデリーケのように、純真無垢で穢れを知らない乙女。もう一つは、何か謎めいたところがあって男を誘惑する魔性の女。『ウンディーネ』でもそうなんですが、この二つのタイプが一つのキャラに同居したりしている。純真無垢で世間の常識に縛られない自由奔放な質であるがゆえにまた、自然に男心をくすぐるんですね。今日のマンガやアニメなんかでよく見られる女性キャラに近いものです。

メルヒェンというのは最初は現実世界の寓話という性格を持っていたんですが、ロマン主義も中期以降になってくると、幻想の世界は夜の闇のように魅力的でありながら麻薬のように危険なものとして描かれるようになります。その闇を体現するのがロマン主義的女性像であり、非日常への憧れが魔性の女、異教のみだらな神ヴィーナスなんかへの恋として表象される。戦慄するほど美しく、ときに純真無垢であり、ときにまがまがしいほどに性的魅力を振りまく女たちです。

そんな女たちが現実に多くいたわけではないと思います。そうではなく、どうやら現世の生活への執着と彼岸への憧憬の間で揺れ動く男が投射したイメージです。現世の憂さを晴らしてくれるような女神を、女性に求めているんですね。これも今日のマンガやアニメの女性キャラ、芸能人などの機能に近いものと言えるんじゃないでしょうか。

連れ添う女と遊ぶ女

ロマン主義における女性像がゲーテのものより複雑になったことにも、前史みたいのがありそうです。18世紀以前は女性を蔑む見方が支配的であったとはいえ、女性に何か神々しいものを見る考えも皆無ではなかった。女神というのはやはり女性の神化ですし、巫女や女王・姫などもまた高貴なものであると思われていた。つまり、女性には男を卑俗なものに引きずり下ろす悪魔的なところだけではなく、高みに引き上げる神々しいところがあるとされていた。

なぜそんな分裂が起きるのか考えてみると、いくつか思い当たる点があります。女性が悪魔の誘惑の手段であるという話の原型は、『創世記』におけるアダムとイヴの関係です。しかし、イヴはもともとアダムの孤独を慰める「連れ合い」として作られました。そしてアダムといっしょに地上に追放された。であるから、女は男の地上の伴侶でもある。

これもまた男の勝手な視点から見れば、自分の子を産み育て、親の面倒を見、また家庭の切り盛りをやってもらわないとならない存在である。そうすると、女神さまではこれが務まらない。天女を女房にしたら、羽衣を隠しとかないと、自分や子どもを置き去りにして天に帰ってしまう。

であるから、この二つのイメージは、聖なる女たちと俗なる女たちにあいだの分業によって担われていた。ところが、俗なる市井の女たちもまた女神化されてしまうと、この分業がなくなります。女たちが二つのイメージに引き裂かれることになる。現世の伴侶としての女現世を憂さを忘れさせてくれる女です。

この区別も古いもので、「連れ添う」女と「遊ぶ」女という形で長く存在してきました。後者は必ずしも今日でいう娼婦とは限りません。むしろ、元は巫女など聖なる女たちが娼婦の役割も果たしていた。「女郎」という日本語は「上臈」つまり「上流」から生じたということは、いつかお話ししましたね。普段から化粧をする女というのは上流の女か娼婦であったわけで、これが俗世の伴侶としての堅気な女たちから彼女らを分けた。

一方で、自分の女房とか恋人などには貞節や禁欲を課する。他方で、自分の欲望を喜んで満たしてくれる女もまたどこかにいないとならない。こんな手前勝手な要求を男は女に対してするんですが、こんなものにもかなり長い歴史があるようなんです。

たとえば、井原西鶴とか近松門左衛門などを読むと、男は女房には恋しません。恋仲の二人がいっしょになったとしても、結婚すると恋の関係とは異なる関係が生じます。恋の対象になるのは女房ではなく、遊女か若い男です。純真無垢な若者とか子どもみたいな女が恋の対象になる。つまり、女房はもう子どものような神性を失っていると考えられてる。

結婚が神聖な恋愛の成就であるとする今日の見方からはスキャンダラスな話なんですが、だからといって女房が大事にされてないわけでもありません。実際に、恋人への思いと女房への義理に引き裂かれている場合が多い。女房は女房として愛してる。ただもう恋の対象にはならない(この恋と愛の違いについても以前書いたことがあるので、興味のある人は以下のリンクを参照してください)。義理は現世の生活に、恋は一種の彼岸願望に結びついてる。だから死で終わる恋がいちばん純粋で美しいんですね。

巨視的な視点から見れば、ゲーテやロマン主義文学がやったことは、今まで一部の女に限られていた神性や彼岸性を市井の女の女性にまで広げたということなんですが、それによって、今まではもっぱら「連れ添う女」であればよかった市井の女が、「遊ぶ女」という役割まで引き受けないとならなくなったわけです。

もう一つこれに関係していそうな分裂は、面倒見の良い世智に長けたおばさん面倒みられること以外は何にも知らないうぶな少女のような対比です。この「おばさん」と「少女」の分裂は今日のマンガキャラなどでは典型化されていて名前までついてるようです。

ロマン主義小説の主人公みたいに、現代男はこの「おばさん」みたいなキャラと「少女」みたいなキャラのあいだで揺れる。現実にはこの二つは同一のもので、時間の経過によって少女がおばさんになるんですが、男も女もこの経過を公然と見せることを憚る。であるから、男のイメージのなかでは、この二つは全く違う種類の存在として扱われているわけですね。

新しい女たち

さて、男が女に投射したイメージはまた、女の自己認識にも変革をもたらしました。女もまた男に愛される女たちに憧れます。だからそのイメージに従って自分たちを作り替えてきました。意識しようがしまいが男の夢につき合ってきたんですね。

ただ、ロマン主義的女神像が女自身の自己認識の一部になってるから、男の夢につき合ってるとは思えなくなってる。化粧するのは自分のためだと思っている。女たちにかぎらず、それくらい自己理解というのは他者に依存してるものです。

だけども、これが今日の女をずっと美しく魅力的にもした。ロマン主義小説に出てくる女神たちにずっと近くなりました。たとえば、かつては非日常の象徴であった化粧、上流階級か遊女しかしなかった化粧が日常的なものになりました。また、女もまた女らしい深み、精神性を持たないとならないことになりました。男を誘惑しないまでも、恋においても他のことにおいても、主体的になることが求められるようになりました。それで、美的にも知的にも優れた女たちが多く育つようになった。

しかし、これが度を過ぎるようになると、自然の女性、女が「ありのままの自分」なんていうようなものを抑圧するようにもなる。男の期待に知らず知らずのうちに応えようとするあまり、無理をしてきたようなところがある。

それから、女を女神化したからといって、男の方の手前勝手度も減じたわけではない。かえって自分たちの女神を崇拝するあまりに、生身の女の方の事情に目をつぶってしまっているようなところがある。であるから、今日のいわゆる the battle of the sexes の大元はゲーテあたりまで遡れるんではないか。そう自分は考えたわけです。

今回で終わりになるはずだったんですが、いろいろと道草を食ってるうちにまた長くなってしまいました。結末は次回に致したいと思います。

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