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時間と死の経済(経済学に人間を取り戻すために その二)

人間とは大地・地球(Earth)に縛られた存在である。地球から逃れることができない限り、大地の女神のケチというのが経済成長の一つの限界を設定する、というのが「大地の経済学」の主旨であった。

だが、仮に大地の恵みが無限であったとしても、経済は無限には拡大しないかもしれない。実際に、今日多くの地域で食糧や鉱物の供給は需要を満たして余りある。それなのに、平均利潤率は低下してほぼゼロになっている。人々の欲望には限りがないはずなのに、需要が以前ほど伸びなくなっている。無限の増殖のへの期待はすっかりしぼんでしまっている。何が汲めども汲めども尽きないユートピアをディストピアと化してしまったか。

「死すべきもの」の経済

経済学が忘れたもう一つの人間の条件とは、我々は死すべきもの(mortal)であるということである。死すべきものだから生きる時間が限られている。1日は24時間以上にならないし、その3分の1から4分の1は睡眠で費やされる。残りの時間の大半も肉体的必要を満たすための労働や栄養摂取に費やされる。それ以外のことは余った時間にしなければならないから、そうたくさんのことはできない。

時間をほとんど費やさない消費も確かにある。豪邸に住むとか、どこかの国の成り金や麻薬王みたいに便器を金にするとかいう消費もある。だが、時間を費やさない消費はどこかしら無駄遣いっぽい。服飾でもただ高いものを着るだけでは物足りない。時間を使わない消費の比率が増えると、費用対効果が減じてきて、何か退廃的な感じがしてくる。カネの価値、そしてそれを生み出す労働の価値がデフレを起して、何のために働いてるのかわからなくなる。

必要を満たす時間以外の余暇をいかに有意義に使うか。これが消費活動で求められるものであるかぎりにおいて、欲望は死すべきものの限られた時間という制約を受けざるをえない。必需品以外の商品は、この限られた時間を一種の植民地として囲い込むために互いに争わなければならない。

人生の機会費用

経済学に機会費用ということばがある。休暇で海に行けば山には行けないし、中華料理を食えばイタリア料理も日本料理も諦めないとならない。ゲームをしたりテレビを見たりすれば勉強したりお稽古事をする時間が減る。

それだけならたいした問題じゃない。今日は中華を食って、明日はイタ飯を食えばよいだけの話だ。だが、人生には構造があって、単にバラバラの瞬間の集合ではない。今の自分は過去の自分のしたことの結果であり、未来の自分はまた現在の自分がやることの結果である。人生はその場その場で終結するのでなく、生れてから死ぬまでの一連のつながりである。

そうなると、過去の蓄積を無視して全く新しいことを行うことはむずかしい。軌道修正することは、歳をとればとるほど難しくなる。親になるには交際相手を見つけて子を産まなければならない。そうしてひとたび親になってしまえば、もう飽きたからやーめたとは簡単にいえない。学問に投資してしまうと蓄財の機会はあきらめないとならない。科学者としての修養を積めば、自分の中の詩人は殺される。楽器演奏者になるにはそれまでに多くの練習を積み重ねていなければならない。民主主義の時代に生まれれば、もう王子様お姫様にはなれない。

だから、生きる過程を通じて、われわれは多くの選択を行っている。そして、われわれが選んだ人生に対して、ほぼ無限の人生の可能性が放棄されている。一つの生き方を選ぶときの機会費用とは別のすべての生き方であり、一つの選択は過去の選択に依存している。

実現しない市場

資本の蓄積は、まず必要を満たすための生産時間を短縮した。われわれはより少ない労働で多くを生産できる。浮いた時間は必要とは関係ない活動に費やすことができる。余暇の増大である。これがまた新しい商品の市場を発展させた。今日の巨大な娯楽産業などがその典型である。

同時に、分業の進展により、われわれはこの余った時間をより有効に使えるようにもなった。自分ですべてやらなくても、誰かの苦労の果実を金を出して買うことができる。先生について楽器を習ったり、原文を読まずにわかりやすい翻訳や解説書で勉強したりできる。ディズニーワールドみたいに、時間と場所を区切ればお姫様にもなれる。それが進めば、あちらをとってこちらを諦めるという二者択一を避けることも可能になるかしれない。

だが、それでも与えられた時間は限られていて、また過ぎ去った時間は取り返しがつかないというのは、死すべきものが受け入れざるをえない条件である。

ニンテンドーを遊んでいる時間はプレイステーションは遊べない。それだけではない。ニンテンドーを遊んでいる時間は勉強、スポーツなど他の時間の使い方を締め出す。そうして将来可能である生き方が失われるかもしれない。ニンテンドーを遊ぶ時間を勉強、楽器の練習、スポーツなどに使っていれば、もっとちがう人生を歩んで、異なる需要を生じさせる人間になったかもしれない。だが、自分はニンテンドーを遊んでしまったがために、新しいゲーム以上の需要を持てなくなった。その失われた分だけ商品市場も実現しない。

今ない自分への願望が需要を生む

経済学の機会費用はトレードオフの関係なのだが、そこには今ここにあるのにまだつかみ取られていない可能性があるという考えが含まれている。利潤ゼロの停滞経済を再び成長路線に乗せるには、この可能性を可視化していかないとならないではないか。

しかも、その場限りお姫様や英雄気分を味わうようなものではなく、人生として蓄積されるような形のものでないとならない。すなわち、かつては異なる複数の生き方であったものを、一つの生で生きたいという欲張りな願望に火をつけないとならない。言いかえれば、限られた時間の密度を濃くするような生き方を提示しないとならない。「もし〇〇だったら、自分はこう生きたいのに」という想像力を掻き立てないとならない。

今日のゲームの多くはこれを仮想空間上で実現するものであるが、それであると仮想空間上の需要しか生まない。そうではなくて、現実の空間でこれができるようにしなければならない。例えば、これはあまり想像力を掻き立てる例ではないが、家庭を持ち子育てをしながらでも、なおかつ仕事上のキャリアを実現できるような生というのが、かなり永いこと多くの人の夢になっているが、いまだになかなか実現が困難なままである。自分などは、肉体労働にいそしみながらも知的な創作にもかかわる晴耕雨読の生活に憧れておる。

つまり、今ここにはない自分への願望というものが新しい需要を生み、今は存在しない商品への市場を生み出す。さらなる経済成長を続けるには、自分たちが知らず知らずのうちに囚われた可能なライフスタイルの枠を対象化し、そこから飛び出さないとならない。良し悪しは別として、「今のままの自分でいい」などという考えを放置して置いたら、資本主義などすぐに行き詰ってしまうに決まってる。そして、まさにそれが現在起こっていることのように見える。

一方で、想像力が欠けているために、いくらカネをポケットに突っ込んでやったところでよい使い道が思いつかない人間が増えていて、だから妙な錬金術のアドヴァイザーが繁茂する。株とか土地とか通貨という「実体」のない資産にカネが集まる。カネがカネを追うだけで、それが実生活の改善につながらない。だから他方で、カネ詰まりで結婚して家庭を持つという選択肢でさえ選べない人々が大量に発生している。「今のまま自分でいい」というのは、この双方の人々向きのイデオロギーであり、悟りを開いた上での禁欲というよりちょっとやせ我慢的なところがある。

果たして人間を捨象してしまった今日の経済学は、この課題に向き合うことができるか。

(借用した画像:By José Guadalupe Posada - ArtDaily.org, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1485430)

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