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世界全体を敵に回す人々(マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』)

なんだか合理的な「狂人」たち

1981年の作品。なんだか SF みたいな題名だが、十九世紀末のブラジルで起きた実話に取材された、マジックのつかないリアリズムの小説だ。カリスマをもつ「聖者」に率いられた貧者、罪人、不具者など社会の最底辺の人々が、見捨てられた町カヌードスを占拠して、神の国を建設しようとする。未来どころか中世めいた話である。だが、この「中世」が近代的な共和国軍を三度にわたって撃退してしまう。そして四度目に町ごと焼き払われる。
 
この集団を支えた教えは、世界の終わりと千年王国の到来である。もうすぐこの世の終わりが来る。そして、神の国が地上に実現する。だが、その前に裁きがある。それまでに改悛したものは救われるが、そうしなかったものは永遠の地獄へ落される。であるから、この世のものに執着していても仕方がない。カヌードスを守るために、すべてのものを捨てて戦う。たとえ世界全体を敵に廻しても戦う。死を恐れずに戦う。
 
過去の革命運動は、多かれ少なかれこの終末論と千年王国思想と結びついている。冷静に考えたら不可能なことをやるためには、冷静であってはならない。狂信的でなければならない。先般紹介した『密林の語り部』もそうであるが、バルガス=リョサはこのころ「狂信」というものに関心を抱いていたらしい。
 
だが、狂信的であることが、そのまま猪突猛進のカミカゼとなるわけではない。歴史家ホブズボームが書いたように、このブラジルの事例でも、匪賊(山賊や盗賊の類)が宗教革命運動に参加して、軍事力を供給している。装備においても規模においても圧倒的に上回る共和国軍を、頭脳をもって出し抜く。正規の訓練を受け教科書的な戦術論に囚われた軍を、ゲリラ戦で翻弄する。
 
彼らの目的(神の国の地上での実現)は非合理であるかもしれない。価値観には合理も非合理もあるかとも言えるのであるが、正規軍に抵抗するということ自体がぼくらにはバカげてるようにしか思えない。なぜなら敗北することが目に見えてるからだ。だが、目的の合理性はともかく、それを達成するための手段の選択については、むしろ共和国軍よりも合理的であった。

これは軍事面に限られない。カヌードスは経済的にも合理的な政治共同体として描かれている。通貨のない一種の共産社会で、それぞれが自分なりの能力を生かして、自分なりに共同体に貢献する。その代わり、どのような人でも最低限の生(と死後の復活)を保証される。つまり、神の国とは理想的な政治共同体のことでもある。『もののけ姫』に出てくるタタラバみたいに、敵対的な世界のただ中で、弱い者たちが互いに支え合って生きる自治共和国である。

そうだとすれば、彼らの目的でさえ非合理であるとぼくらは言えるだろうか? このぼくらの住む社会こそが何かしら非合理であると感じてないか? そんなことを考えさせられる小説である。

「進歩」の外にいる人々

こんな奇想天外な事件が、二十世紀も近い世の中で現実に起きたことが驚きである。実際に、当時の人の多くも吃驚した。まるでタイムマシーンで「中世」に連れ戻されたような気がした。当時のブラジルは、王政から共和政に移行して、「秩序と進歩」というスローガンの下で近代国家としての道を歩み始めようとしていたから、余計にそうであった。
 
この事件が起きた北東部は乾燥地帯、神から見捨てられた地であって、今でもブラジルでもっとも貧困な地域の一つである。であるから、まだ「中世」が残されている。近代国家はその「中世」の残滓を一層しなければならない。共和政の理想主義者(軍に多かった)はこう考えた。それがカヌードスに対する攻撃を、恐ろしく残虐で仮借なきものとした。弱者の集団ではなくて近代の敵、ブラジルの輝かしい未来への障害と見なされたのである。
 
しかし、取るに足りないカヌードスが全国から注目されるようになったのは、この理想主義とは別のきっかけであった。北東部においては、守旧派(旧王党派)が中央の共和政府に抵抗して自治を守っていた。そこで地元の共和派の親分がカヌードスを政略に利用しようとした。外国勢力が背後から支援しているというデマをでっちあげてナショナリズムを煽り、連邦政府の介入を促して、守旧派の牙城を崩そうとした。
 
近代史を顧みるとき、われわれの目に映るのはほぼこの部分である。いわゆる保守的・反動的勢力と進歩的・革新的勢力が衝突している。前者は不平等を前提とした貴族制的な政治を理想とする。後者は平等を説いて民主化を進めようとする。今でもわれわれはこの構図で政治を見たがる。
 
だが、この表舞台の政治と多くの人々の生活のあいだには隔たりがあった。「聖者」のあとについてカヌードスに集まった人々(罪人、貧者、不具者など)にとって、王政か共和政かというような問題はどうでもよいことだった。人民のことを真摯に考えてる共和政理想主義者の思いやりにもかかわらず、だ。それどころか、共和政は王政時代に廃止された奴隷制を復活させようとしていると誤解して、かえって共和政を敵視した。
 
国家や政治体制に対する彼らの無関心の理由は、この小説で明快すぎるくらい明快に描かれてる。近代的であろうがなかろうが、国家は彼らを苦しみから救ってくれない。彼らは地上では「見捨てられた人々」である。彼らを救うのは、まだ地上では実現していない御国の到来を約束する宗教共同体しかなかった。
 
バルガス=リョサは、どうやら表面的な保革対立の政治史の奥底に、こうした現実があることを見てとった。それが『世界終末戦争』と『密林の語り部』という1980年代の大作につながった。どちらも文明から見た宗教的狂信がテーマになってる。ブラジルやペルーにかぎった話ではない。ホブズボームなどを読むかぎり、20世紀においても、社会革命の背後には多かれ少なかれ千年王国思想がある。異端のマルクス主義者であるエルンスト・ブロッホが説いたように、社会主義もこのユートピア的要素を脱ぎ捨ててしまうと、人びとを鼓舞しない死んだ思想になってしまう。

文明の野蛮さ

『世界終末戦争』を読んでいて思い浮かんだのは、日本の『邪宗門』という小説。高橋和巳という人が書いたもので、新左翼の若者に人気があった。大本教などがモデルになっていて(著者は否定しているが)、中野正剛のような右翼政治家も登場してくる。フィクションであるが、歴史的なフィクションである。
 
やはり貧者や病人など「見捨てられた人々」が集まって、共に助け合って生きている。だが、国家は彼らを「国家の中の国家」として危険視する。また同様に、彼らを政治的に利用しようという者もいる。宗教共同体内部にもまた、敵対的な世界で生き延びるために、政治に関与しようとする者が出てくる。それで政争に巻き込まれて、戦時中は弾圧の対象になる。戦後も、最後はやはり世界全体を敵に廻した決戦みたいなことになって、米駐留軍の支援を受けた自衛隊の侵攻を迎え撃つことになる。
 
『世界終末戦争』も、1973年にバルガス=リョサが依頼された映画の脚本をもとに書かれたらしいから、『邪宗門』(1966年)とほぼ同時代である。ホブズボームの匪賊や千年王国運動研究も含めて、この時代に左翼思想に共感する若者に共通する関心であったかもしれない。自由主義にもマルクス・レーニン主義にも反発した新左翼には、ブロッホにも似たロマン主義的傾向があったらしい。新左翼の一部が柳田国男に向かったのも、正統思想が否定し去った、過去のもつまだ償還されない未来性みたいなものを求めたようなところがあるように自分は思っているのだが、まだ調べ切れてない。
 
『世界終末戦争』も『邪宗門』も、軍事的には「文明」が勝利する。だが、その過程で、「文明」の方が「野蛮」よりも残虐無比な破壊者に転化している。別の言い方をすると、『密林の語り部』同様、「文明」の底に流れる「野蛮」さと「野蛮」がもつ文明の罪を贖う未来性が示され、文明と野蛮の関係が逆転してしまっている。怪しからんことに、文明と野蛮の区別自体が相対化されてしまっているのである。

「知識人の裏切り」

19世紀以来、文明の申し子でありながら文明から疎外された存在としての知識人は、文明の他者である未開や野蛮に目を向けてきた。『世界終末戦争』では、ヨーロッパから流れてきたスコットランド人革命家が登場する。ヨーロッパではしぼんだ革命への希望をこのカヌードスに見出せるという予感に駆られて、彼はカヌードスに到達しようとする。唯物論者で無神論者でもある彼が、である(だが、骨相学などという疑似科学は信じてる)。

あるいは、眼鏡なしでは子ども同然になってしまう元作家志望の新聞記者も出てくる。カヌードスの狂気に恐れを感じながら、やはり魅せられている。英雄的なものに憧れながら、自らは英雄にはなれない。これらの人びとが、知識人の文明への愛増を代表している。『密林の語り部』の「私」のように、向こう側に渡ってしまった友人に惹かれながらも、その決断に闇の部分を認める。この闇が深遠であって恐怖を感じる。だから、自分では橋を渡らない。この橋を渡ってしまったら、もう文明の申し子たる知識人ではなくなる。そうするのは「知識人の裏切り」である。自殺行為である。そう感じるところがある(そして、ファシズムの経験に照らして、おそらくそれは正しい)。

だが、面白いことに、友敵、善悪といった二項対立で斬らない著者のリアリズムにもかかわらず、『世界終末戦争』の読者の同情は、もっとも自分たちから遠いはずの「狂信者」の集団に向けられるだろう。次いで共感は、支配する者の責任を自覚する王党派の男爵、あるいは名誉にこだわる北東部の保守的な男たちに向けられると思う。

いちばん共感しにくいのは、いちばん近いはずの進歩的共和派(今日でいえば「リベラル」とか民主派)。それでも理想主義者にはまだ共感できるところがあるが、マキャベリアンな共和派(奇しくもこの事件で唯一得をした勢力として描かれてる)にはいやらしい感じしかしない。というのも、どうもこの進歩派にも、なんだか「狂信的」なものがある。目的のためなら手段を選ばないところがある。だが、「狂信者」のラベルを他人にばかり押しつけて、自分たちのそれにはぜんぜん気づいてない。

文明のあら捜しを得意とする知識人たちは、これを見逃さなかった。それで、こんな小説が書かれることにもなった。だが、それは文明に背を向ける者としてではなく、文明の良心たろうという気概からであったのかと思う。

文明と野蛮を分けるもの

バルガス=リョサの実質的なデビュー作である『都会と犬ども』(1962年)では、混血が多数を占める士官学校に入学した白人の子弟が、中流、上流の住む住宅街からは閉ざされているペルーの汚い現実に接する。著者自身の体験に基づいた、自伝的な小説である。目的を失った権威のふるう恣意的な暴力。自衛のために生徒たちもまた暴力に訴える。それが弱者の連帯をも生むが、しわ寄せはそうした環境に馴染めないいちばん弱い者、抵抗できない者に行く。規律は形がい化していて、弱い者を守ってくれるものがなにもない。軍や学校という近代的組織に「中世」が巣くってる。

また、学生時代のバルガス=リョサは、ペルーの内陸部の密林にも人類学の調査旅行に同行する機会を得た。そこで「石器時代」に生きている人びとを見る。近代の洗礼を受けた者にはとうてい受け入れがたい信仰を抱いて、進歩の恩恵を拒否する者を見る。だが、一方では、その進歩を受け入れた者たちが出来損ないの白人みたいになって自分を見失い、差別され搾取されている現実も見る。

若いころに「野蛮」がまだ現代に活きていることに衝撃を受けたであろうバルガス=リョサはしかし、後に政界入りして、アプラと呼ばれる政党やフジモリのポピュリズム(と選挙戦中は思われた)に対して自由主義的保守陣営の候補、言ってみれば近代文明の候補として大統領選に出馬する。合理的で規律ある自由主義社会を、民衆の非合理的で野蛮な衝動から守る。それがペルーの進歩には必要である。おそらくそう考えたのだと思う。

そこに途上国の欧化したエリートの限界を見ることも可能であるが、どうも彼の場合には、これは傲慢よりは謙虚と結びついている。文明の一部として生まれ育った自分らには、文明の他者を完全に理解することは不可能である、という謙虚さである。かえって自分たちの都合に合わせて、他者を自己に同化してしまう危険がある。であるから、彼らが自分たちの信じる道を進むように、自分たちもまた自分たちの信じる道を進むしかない。そのような諦めみたいなものがある。

結論は同じかもしれないが、この自分の弱さ、自分たちの「できない」を認めるか否かが、文明を野蛮から分かつ。こんな小説が書かれて読まれるのは文明においてだけであり、その意義が軽視されるようになった社会は、もう野蛮に一歩足を踏み入れている。なんだかそういう文明観があるように思える。

戦間期にファシズムのもとに馳せ参じた裏切り者の知識人とは違ったかたちで文明の他者と向き合う知識人のあり方、不条理な世界から隔離された条理の孤島で近代の恩恵を独占してきた人々のイデオローグとしての知識人以外のあり方がありうる。野蛮に魅せられながらも文明の側にとどまろうと決意した知識人たちは、そのようなものを模索していたんではないか。彼らの人類学/人間学は、言ってみれば文明の自省ではなかったか。そんなことを考えさせられた。

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