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「遊び」に命を懸ける人々(人はスポーツの何を応援したくなるのか)

私はほとんどスポーツを見ない人間です。自分でやるのは嫌いでないけれども、人がやってるのをただ観戦するということにはあまり慣れていません。だけども例外的にボクシングだけは見ます。応援している選手もたくさんいます。

それは自分が高校時代にやっていたことがあるからなのですが、ボクシングならではの感動があるような気もしています。というよりも、スポーツ全般、果てはチェスや囲碁・将棋などの競技的ゲームにも備わっているある魅力が、ボクシングにすぐれて認められるように思うのです。

そこで、まずはこのボクシングの与える感動とはいったい何なのかというところから話を始めてみます。

殺すことを目的とするスポーツ?

ボクシング好きならご存じの方も多いと思いますが、かつてアメリカにジャック・デンプシーというヘビー級王者がいました。1920年代の話です。国民的英雄だったんですが、リングの上では獰猛な「野獣」です。残されている映像なんかを見ると、本当に背筋に寒気を覚えるくらい狂暴な奴です。

ちょっと記憶が定かでないんですが、確か1926年にジーン・タニーが彼に挑戦したときだったか、「あいつは明らかにオレを殺したがってた」というようなことを言ったことがあります(試合後、彼らは生涯の友になるんですが)。

生命に危険があるという意味では他にも危険なスポーツは多くあるんですが、ボクシングというは中でも特別な位置を占めています。実際に、多くの医者やヒューマニストの敵意に晒されてきました。

自分が聞いた話では、ボクシングにおける事故死の確率は必ずしも他のスポーツと比べて高いわけではない。危険であるがゆえに余計に気をつけているからなのでしょうが、それならば気をつけてやる分には他のスポーツと異なることはない。

しかし反対派の人々はこう指摘します。他の危険なスポーツと異なり、ボクシングは相手の脳を直接攻撃対象とする。殺したいとは意識していないかもしれないが、相手を殺すつもりでいかないと勝てないのがボクシングである。そういうことをジョイス・キャロル・オーツというボクシング史家などが指摘してます。死が不慮の事故であったと言い切れないものがある唯一のスポーツがボクシングなのです(近年は種々の格闘技がスポーツ化しているので、この地位も独占ではなくなりましたが)。

そんなスポーツを憎む者も多いのですが、それ以上に愛する人たちがたくさんいる。ボクシングには妙な魅力がある。その証拠に、マンガなどでも取り上げられやすい。スポ根モノではやはり特権的な地位を占めている。いったいボクシングのような危険なスポーツの何が人を魅了するのでしょうか。

機械の殴りあいはぼくらを感動させるか

ここで、ひとつ想像してみてください。近い将来、人間の命をこんな危険に晒すことが禁止されたとします。その代わりに、すぐれた人工知能を搭載した人そっくりのアンドロイドがボクシングの試合をするようになる。彼らの頭脳と身体機能は人間以上の完成度をもっており、人間同士の試合以上にすぐれた技の応酬になる。果たして、この機械同士の殴りあいは人間を感動させるでしょうか。

確かに、ある面では感動させると思います。ぼくらがボクシングを見るのは、ひとつは野蛮なものに対する嗜好です。誰かが誰かを殴り倒すところを見てみたい。アンドロイドがアンドロイドを破壊するのでも似たような快楽が得られそうです。

そんな残虐な嗜好を持たない人でも、精密機械がほれぼれするような技を競い合うところを見れば、やはり人間がそうしているのを見るのと同じく感心するでしょう。機械の方が優れた技を繰り出せるのであれば、むしろこうした感動は機械同士の戦いの方が多いとも言えそうです。

だけども、アンドロイドの試合は、たとえどんなに優れていたとしても、ひとつ決定的な点で人間同士の試合ほど人を感動させないんではないか。自分はこう思っています。

残虐行為への嗜好を満たす野蛮さ。完成された身体による熟練への感心。それは確かにボクシングの魅力の一部ですが、それ以外にも何かある。それは他のスポーツにもあるのですが、特にボクシングが優れて有している魅力である。そして、機械同士の殴り合いにはこれが欠けていると思うのです。それは何なのでしょうか。

生命に対する畏敬

以前に人工知能の話をしたときに、生命同士が互いに抱く畏敬の念について少し触れたことがあります。

復習すれば、私たちが生き物を前にして何か恐れ敬う気持ちを抱くのは、その生理的現象に対してではない。平たく言えば、単に死んでいない、何らかの生体反応を示すという事実に対して畏敬の念を抱くのではない。そうではなくて、この畏敬の念というのは、生きるという目的をもち、その目的を能動的に実現しようと努力している主体に向けられたものである。そういうお話でした。

ちょっとむずかしいので、もういちど説明してみましょう。前回引用した私の父の走り書きの該当部分ですが、このようなものでした。

従って、「生への畏敬」は、目的々現象系列(例えば、生理的現象)への畏敬ではなく、現象を統御する目的論的主体への畏敬であり、間主体の畏敬である。

分かりにくい日本語ですね。ばらして解説してみましょう。

人間の身体も精密な機械と同じような美しさをもっています。それはある目的を実現するためにさまざまな器官を無駄なく有機的に組み合わせた、一つのシステムです。完成品です。生理的な拒否反応さえ克服してしまえば、機械を愛するように人体も精密機械として愛することができるはずです。

そうなると、逆に、病人やケガ人を、精密な機械が故障してるのを見るのと同じような目で見ることもできますね。よくできた機械が故障していると、少し残念な気がする。できれば直してやりたくなる。同じような気持を病人やケガ人に対して抱くこともできそうです。

例えば、医者というのは、人間の身体を「目的々現象系列」として扱います。つまり目的をもった機械のようなシステムとして見る。もちろん、医師も患者が人間でありモノではないと知っているのですが、あえてその人間性に目をつむって機械のように見る。そうすることによって「故障」がどこにあるか、どうすれば「修理」できるのか判断して、治療することが可能になる。

しかし、ぼくらが重い病やケガを乗り越えて生きようとする人間の姿を見たときに感じる感動は、よくできた機械に対するものとはちょっと違いますね。そういう人々に接したときには、ただ気の毒に思ったりするだけではない。まさに畏敬の念を抱く。

引用文に出てくる「現象を統御する目的論的主体への畏敬」というのはそういう畏敬のことです。生命体というのはただ受動的に「生きている」だけではない。生きようとする。生きるという目的のために能動的に環境に働きかけていく。ただ「生きてる」だけではなく「生きようとする」もの。これが「目的論的主体」ということです。

なぜ、そんなものにぼくらは畏敬の念を抱くのか。それは、ぼくら自身がそういう「目的論的主体」であるからである。ぼくらの一人一人がまた生きようとして努力している。だから、同じような目的に向かって働くものに共感する。つまり、生命に対する畏敬というのは、生きようとしている者同士が互いに抱き合うものである。生きる主体と主体の間の畏敬である。これが「間主体の畏敬」の意味です。

だから、この畏敬は人間同士に限られない。主体としての生命の意志がくじかれる(つまり不慮の死を遂げる)のを見ると、それがたとえ牛馬でも犬猫でもやはり悲しいのは、この生命同士が抱く共感から来ると考えられる。

命を懸けた「遊び」

ここでボクシングの話に戻りましょう。ボクシングが与える感動というのは、ひとつはこの生命への畏敬の念から生じるのではないかと思うんです。ある極限の状況に置かれた人が、死地から活路を切り開き、なんとか生還しようと努力する。この姿が畏敬の念を呼び起こす。そこには闘病生活をする人に抱かれるような感情に似たものがある。

つまり、まさに相手を殺しかねないスポーツだから、余計に必死に生きる姿が浮き彫りになる。しかも、スポーツとしてのボクシング選手というのは、闘犬や闘鶏のように強いられて戦うのではない。自分の意志で自らを不条理なまでの極限状況に置く。だから、同情よりも畏敬の念の方が多くなる。

むろん、ボクシングだって殺し合いではありません。ちゃんとルールがあって、事故が起きないように気を配る人たちの管理の下に行なわれる。ボクサーたちも必ずしも命まで取られると考えてリングにのぼるわけではありません。そういう意味ではボクシングも「遊び」です。これは他のスポーツと変わるところはありません。いな、身体的なスポーツだけではなくチェスや囲碁・将棋などのゲームとも共通です。

だけども、自分はさらにこう考えるんです。命がかかっていない勝負事を観戦するときに得られる感動もまた、生命への畏敬と関係していると言えないか。命がかかっていない勝負に、まるで生死がかかっているような気構えで臨む。そうした人を見たときに、ぼくらは感動する。生きんとする主体に抱く畏敬の念に近いものを感ずる。加えて、勝った者にはその意志を貫徹した者に対する敬意、そして敗者には意志を遂げられなかった生命に対する深い同情も感ずる。

説明のために、もうひとつ反対の例を挙げてみましょう。

先ほどアンドロイドによるボクシングの試合の想像してみましたが、チェスや囲碁・将棋の世界では身体を必要としません。だから、もう人間と機械が勝負をしてて、どうも機械の方が人間を圧倒するほどにまでなってきているようです。だけども、どういうわけか人工知能同士の手合わせというのはあまり聞きません。

そこでチェスの人工知能同士の対戦があったとしましょう。対戦の内容自体は人間の勝負と同等かそれ以上です。いろいろと驚かされることや勉強になることがあるでしょう。だが、やはりボクシングと同じで、ひとつ決定的に違う点がある。

機械には生命がないから死なないんです。だから必死にはならない。その代わり手抜きもしないんですが、一生懸命にはならない。そうであるから勝っても鬼の首を取ったように喜ぶことはないし、負けても悔し涙を流さない。復讐の念も抱かない。そうすると、観戦者が勝った者といっしょに、勝った者の気持ちになって喜ぶ、もしくは負けた者と共に悲しむということがないんです。

そうであると、機械同士のチェスの試合は技術的には十分楽しめるだけのものがあるけども、人間同士の勝負にある感情的なものが欠けている。それは生命に対する畏敬を刺激されることがないということから来ている。そういうことが考えられるのではないかと思います。

私みたいな無精者は、ボクシングくらいはっきり見せられないと畏敬の念をなかなか感じることがないのですが、他のスポーツ、そして競技的ゲームにおいても同じような畏敬を感じる人がたくさんいるのではないでしょうか。

生命と感情

いい加減長くなったんですが、実はこれが言いたいがために長々書き続けてきたので、あと少しお付き合いください。こういう意味でのぼくらのスポーツ愛というのは、実は人間性の根源的な部分に触れているんではないかと思うのです。

以前に動物というのは移動する、移動するから意志を持ち、認識力が研ぎ澄まされ、判断力が培われるという話をしました。話が長くなるのではしょったのですが、実は感情も動物の移動性と関係があるのではないかと自分は考えています。

その時の話を繰り返すと、動物は移動することができる。どこにでも好きなところに行ける。移動の自由がある。だからどちらかに行こうという意志をもたないとならない。どちらに行こうと判断するための情報を認識する力がなければならない。そうした情報を綜合する判断力も要る。移動しない植物にはそんな意志も認識力も判断力も必要ない。こういう話でした(興味ある方のためにリンクを貼っときます)。

これだけなら人工知能もまた真似することができる。しかし、そもそも動物はなぜ移動するのか。その目的は何であるのか。答えは生きるためです。生きるために餌を探す。餌が見つかれば嬉しい。見つからなければ悲しい。だから見つかるように必死の努力する。敵がやって来るのを心底から恐れる。だから不安になるし、強敵に出会えば逃げようとする。それでも襲われてしまえば怒る。怒るから負けるもんかという闘争心が起こる。

移動することのできない植物にとっては、こうした感情は無用です。動けないのにここにないものに欲望を抱いたり、遠くの脅威を恐れたりしたところで、何もできません。だから最初から感情をもちません。少し達観した人間に似たところがあって、だからぼくらは大きな古い樹木などに王者の貫禄を感じたりもします。

しかし、動物にとっては、感情の助けがなければ意志はか弱いものになる。いくら認識力や判断力があっても行動にまで至らないことが増える。喜びたいから、悲しみたくないから動物は動く。恐れるから走る。怒るから戦う。そうなると、移動性に優れた人間がまた複雑で激しい感情的起伏をもつ動物であることもまた不思議ではないですね。

勝負事というのは、この「生きる」ということの縮図である側面があると思います。命までは取られないものに命を懸けたつもりで取り組む。そうして、まるで生死を賭けた戦いを制したような喜びを得ようとする。必ずしも感情をむき出しにはしませんが、やはりぼくらが日常ではめったにお目にかかれない激しい感情の動きがある。秘められた強い意志がある。そこにぼくらはあの「目的論的主体」、つまり生きようとする主体を見出し畏敬の念を抱く。ボクシングというのは勝負事のそうした側面を最も直接的な形で開示してくれるものであるけども、勝負事一般にそうした性質がある。

もちろん、「遊び」ではない生、ぼくらが「仕事」などと呼ぶものがあるわけなんですが、そちらの生の方においては、どういうわけだか生きる喜びがあまり感じられなくなっている。そうして、どうもぼくらの生命への畏敬も弱まっている。日々の労働は散文的なものですが、それにしても感動するようなことがあまりにも少なくなっている。生きるための活動であるはずの労働に携っている間、まるで死んでるように感じる人が増えている。

そういうわけで、ぼくらは生の喜びや生命の畏敬を再確認するために、「遊び」の世界に頼る度合いが強まっているのかもしれません。スポーツが多くの人を励ますのもそうした理由かもしれません。ぼくらもスポーツを応援するんですが、スポーツに一生懸命取り組む人たちもまた、自分たちの意図とは関係なしに、生きる主体としてのぼくらを応援してくれている。そんな関係が選手と観衆の間にあるのではないかと思います。

なんだか大学の先生の書くスポーツ論みたいになってしまいましたが、そんな風に自分は想像しているんです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。