見出し画像

それでも自分らしく生きるために必要なもの

前回からの続き。ペースが早すぎて消化不良にならんかと心配であるが、あとが立て込んでいる。書けるうちに書いておきたいものがたくさんある。今の自分の境遇に投げ込まれた者にとっては、一日でも無駄にするのが惜しい。もとよりこちらが頭を下げて聞いてもらう立場であることは重々承知している。ひと月やふた月の賞味期限しかないようなことは書いてないつもりである。ゆっくり読んでもらって構わない。

まだ読んでない人のために、前回、前々回の記事のリンクを張っておく。

虐殺事件と「自我」

理屈っぽい話が続いたので、一つ具体例を挟んでおく。一般にソンミ村虐殺事件として知られる事件がある。ヴェトナム戦争中、米軍の一小隊が南ヴェトナムのソンミ村ミライ部落の住民五百名近くを殺害した事件である。このとき、一機の米軍ヘリコプターが同村の上空を通りかかる。傷ついた少女を発見した操縦士は、着陸して保護しようとするが、少女はその目前で米軍兵士に射殺されてしまう。

村で虐殺が行なわれていることに気づいた操縦士は、攻撃されたら撃ち返せと乗務員に命じ、生き残った村民を保護し救出する。しかも、そのあともう一度現場に戻って、水溝に折り重なる屍の中で母親の遺体に取りすがっている男の子を保護している。後に、なぜそんなことをしたかと問われて、「自分の郷里にも同じ年頃の子供がいた」と証言している。

つまり、このヘリの操縦士は友軍と撃ちあいになる覚悟で「我を通した」のである。いわゆる美談で美化されている部分もあると思うが、自我というものが単なる「わがまま」とか「自分勝手」とばかりとはいえないことを示すよい例だと思う。

しかし、自我などというものは実在しないとすると、彼の行動はどのように説明されるか。実は戦争に関する国際法規では負傷した非戦闘員を保護する義務があるようだ。だから、ヘリの操縦士はむしろ軍人として本来とるべき行動をとったとも言える。しかし、子供救出の動機から、軍人としてではなく一人の親としてもまた考えたことがわかる。調べていないからわからないが、もしキリスト教徒であれば「殺すなかれ」の戒律も内面化されていたかもしれない。

自分などがこの話を聞いて感じるのは、自らの命を賭してまで自分には何の利益ももたらさないような他人の命を救うだけの覚悟をもつには、相当強い「自我」が必要であるなということである。個人主義的といわれるアメリカ人でさえ、周囲の空気に流される場合の方がよほど多い。日本人のなかにこのような行動をとれる人間がどれほどいるだろうか、と自問すると背筋に冷たいものを感じなくもない。「自我」というものが存在しないとしても、「自我」があるかのようにふるまえるための条件を整える努力がまったく無駄なものでもないような気もする。

個人あって、自我なし

日本において「近代的個人」が「近代的自我」の問題に置き換えられたのは、日本には「個人あって、いまだ自我なし」という認識があったのではないかと思う。生物学的な個体としての「個人」の認識は日本人にとってもむずかしくない。しかし、「近代的個人」というときには、自ら考え判断するという主体性の問題が絡みつく。市場や民主主義における「公論」が合理性を主張できるのもそのかぎりだ。そのためには個人が社会から切り離されて内面的に主体化されなければいけないのだが、日本ではそれさえも意識されにくい。それで「個人」の創出が「自我」問題として捉えられたのではないかと思う。

もちろん、日本人だってこのような美談には共感をもつ。歴史上、世間や周囲の者に反抗して「我を通した」ものもいる。しかし、その多くは世間に背を向け、社会から退出する(隠遁する、自決する)か、不条理な運命を個人として潔く引き受ける(たとえば『硫黄島からの手紙』の栗林中将)という形式をとる。反抗が社会への働きかけに結びつきにくい。ましてや凡人である我らである。他の集団ならともかく、自らが属する集団ということになると、やはり自我を個人のわがままとしか受け取れない人が多いのではないだろうか。並ぶことが得意な日本人は、よいことでも悪いことでもやはり周りの人にしたがって並んでしまうのではないだろうか。

前回までの話を踏まえると、「自我」というものは実体ではなく、分裂した社会関係のいずれにも収まりきれない個人の内面上の葛藤として意識されるものである。言ってみれば、それは静止した物体でなく、相反する力が運動し衝突する場である。

そうなると白樺派流の「自我」なども理想に溺れるロマン主義的なものであり、退嬰的な現実逃避であるという話にも一理ある。自分もこの批判は半分当っていると思う。だが、人文系の学問を多くやってヒューマニズムという考えに骨の髄まで染まった自分にとっては、「自我」や「人間性」をそう簡単に捨て去ることができない。これは既得権益でもあろうが、果してこうした概念なしに、教育者が自分たちのやっていることに食い扶持稼ぎ以上の意義を感じることができるかどうか、自分にはまだ疑問である。

なんとなれば、自我が実体としては存在しなくとも、多元的な社会において引き裂かれた自己を統一するという課題は残っている。どの程度までの残業を許容すべきなのか? 会社から不正を強要されたとき、いかに振る舞うべきか? こうした問いを不問を付してしまえば、われわれはデータ改ざんどころか虐殺に引きずりこまれることにさえ反抗する根拠を失う。

インテグリティと教育:三つの類型

互いに齟齬する社会関係のはざまで「インテグリティ(人格の統一、一貫性、高潔)」を保つやり方はいろいろあるが、大枠は次の三つであろう。まず、社会関係のうちもっとも重要だと思われるものを一貫して優先する。たとえば家族や友情などを犠牲にして雇い主に忠誠を尽くすなどという場合だ。その場合選ばれるのは、自分が生きていくうえでいちばん多くのものを与えてくれるような「丸抱え集団」に近いものになるだろう。だから、こうした選択はいわゆる「イエ社会」と相互補完性がありそうだ。自我はこの集団によって共有される集団的アイデンティティに近いものになる。

こうした選択を行う人間にとって有用な教育とは、当該集団の権威を確認し信頼を増すようなものであると考えられる。伝統教育である。その結果、マイナス面として、社会関係の多くは固定化し、社会は全体として柔軟性を失いやすい。また、ある特定の社会関係が他の関係を浸食したり従属させたりいくことになるから、多元性も失われるかもしれない。

次には、特定の集団にコミットせず、その場その場で、自分個人の利益に最もかなうような行動をとることができる。つまり、一定の原理原則に固執せずに、柔軟に状況に応じるわけである。悪く言えば日和見主義である。この場合、自我というのは文字通りのエゴ(通俗的日本語の意味で)に近くなるし、帰属する集団との関係は手段的なものになる(たとえば、「金の切れ目が縁の切れ目」)。この選択は通俗的な意味での個人主義的社会(いわゆるアメリカ型社会とかグローバル市場社会のようなもの)と相互補完性がありそうだ。

この場合求められる教育は、世渡りに役立つ知識や技能を与えるようなものであろう。問題は、みんながこの行動をとりはじめると、相互の信頼が揺らいで、いかなる集団も安定しなくなる。また、構成員の忠誠をめぐる集団間の争いも激化して、社会自体も不安定化しやすい。または逆説的に、勝ち馬に乗る行動が増えて、市場や世論調査、選挙などという制度を通じた「多数による専制」という結果になるかもしれない。

今となってはどちらにも善し悪しがあることがわかっていて、この二者択一だけとなるとあまり希望がない。だが、近代自体に内在されつつも、まだ実現されていない理想として第三の選択がある。個々人が社会関係に引き裂かれつつも、一個の人格として一貫した行動をとろうと努力することができる。互いに矛盾するような社会関係群の要求にからめとられずに、できるだけ客観的にその価値を判断し選択していく立場を築くことである。しかし、この選択は個人にかなりの負荷を強いる。

イエ社会や個人主義社会では個人が日常から知れる以上のことは必要ではない。他人や他の集団に関しては、知って自分が得するような情報でなければ知らなくてもよい。これに対して人格からなる社会は社会関係の総体を俯瞰しうる力を要求する。たとえば、仕事と家庭の間の対立を調停するには、仕事の領域と家庭の領域が人生全体または社会全体にとって持つ意味を知らなければならない。となると、近代の人格者たるには、孤立した個人の内奥を深く掘っていくのだけではなく、自分と社会との関係を対象化していくような教養も求められる。社会科学的な視点と言ってもよい。

そうなると、実存しない自我を作り上げるためには、かなり高度な修養が必要とされる。単なる知識の蓄積ではなくて、判断し行動する主体形成が求められる。これが近代教育を要請する一つの理由ではなかったか。実際には教育に携わる人々もさまざまな社会関係の交差点にあって、いろいろな方向に引き裂かれている。だが、教育全体としては個々人が生きる狭い「部分」を超出する「全体」に関する知を伝達するという役割が期待されたのではなかったか。むろん、人間の知性には限界があり世界は無限であるようだから、「全体」は完全にとらえられることはないだろう。しかし、それ自体は自分たちが直接かかわっている「歴史」や「社会」の部分について知見を広げることまで諦める理由にはならない。

ここで白樺派的な自我観の限界の一つも明らかになる。教養が個人の内面を掘り下げていき、その奥底に眠る清き魂を発見する過程というイメージで捉えられると、「個」の奥から直接「神」やら「真理」やら「道」やらの名で呼ばれる「全体」へと飛翔しようとしがちで、中間項である「社会」という側面が迂回される。結果として、一方では内省的な人生哲学、実存哲学、文学芸術、宗教などに沈潜していく狭義の教養人ができ、他方で社会科学者には無教養な人が増えた。どちらも自我を鍛える教育者としては力不足の人たちのように思える。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。