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ぼくはどうやって君を知ったんだろう

ぼくはキリンを知っている。なぜなら、ぼくは「キリン」という言葉を聞いて、あの首が長くて黄色の地に黒の斑がある動物を思い浮かべる。そして、その首の長い動物を見たときに、「キリン」という言葉を思い浮かべる。だから、ぼくはキリンを見れば常に「キリン」と正しく呼ぶことができるし、キリンをキリンじゃないものと区別できる。

知るとは言葉とその指し示す内容がぴったり一致した状態である。これが知の定義の一つである。

そこにある知識を吸収する手順

でも、ぼくはこのキリンをどうやって知ったか。ぼくらはまず「キリン」という言葉とその定義を覚えて、それからキリンが他のものから区別されたのか、それとも実在のキリンがまず認識されて、それを言い表わすためにキリンという言葉を覚えたのか。

ここでぼくが言ってるのは、観念が先か物質が先かという哲学の問題じゃない。もう言語化された知識の体系を備えた社会に生まれてくるぼくらが、実際にどういう順序でその知識を自分に取りこんでいくかという話だ。言葉が先か、言葉の指し示す対象が先か。

第一の場合であるとすれば、知るということは、まず言葉とその正しい定義を知るということになる。その知識をもって周囲を見回すと、その言葉の意味に対応するようなものが見出せる。そういう順序で、ぼくはキリンを知ったことになる。

たとえば、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に拠れば、三角形というのは「同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形」と定義されてる。この定義を知っていると、三角形を見たときにそれが三角形であることがわかる。三角形とそうじゃないものを区別することができる。これが、すなわち三角形を知ることである。

第二の場合であれば、まず言葉になっていないもの(キリンや三角形)が直観、つまり感覚器官などを通じて直接把握されることになる。そうして、そのものをぴったりと言い表わす言葉を自分や社会の保有するボキャブラリーの中から探し出してきたとき、ぼくはキリンや三角形を知ったことになる。

常識的に考えると第二の場合が多そうであるが、実は第一の場合も少なからずあるし、二つが同時に起こることもある。自分がすでに知っていたものの名前を覚えたこともあれば、自分が見たこともない聞いたこともないことを、まず言葉で知ったこともある。言葉といっしょにその対象を与えられることもたくさんある。

まあしかし、最終的に言葉と対象が一致さえすれば、どちらの順序でも知ることができる。言葉が先か体験が先かは知の質には関係なさそうだ。

たとえば、普段は滅多に使われることはない「早乙女」という言葉がある。ぼくらはまずこの言葉を学校の教科書などで覚える。そして、教科書の挿絵やテレビや新聞などの画像や映像で早乙女と呼ばれる人たち(を真似る人たち)が田植えをしている(フリをする)場面を見る。それで、ああ、あの言葉はこういうことを指し示していたんだなと理解する。

もしくは逆に、まず田で着飾って働いている若い女性たちを見て驚く。彼女たちは何者だろうと不審に思って人に尋ねると、「早乙女だよ」と答えが返ってくる。そうしてぼくらは田植えをする若い女たちが早乙女と呼ばれる存在であることを知る。

どちらの順序でも、その言葉の意味が正しく理解され記憶されれば、その言葉を聞いたときに、実在の早乙女たちの像なり説明が頭のなかに再現される。この再現能力を具えた状態を「知る」と名づけることができる。

言葉による知の伝達

どちらの順序でも同じ知を生むのであれば、知識を吸収するのに効率のいい方を選べばよい。そして、どうもまず言葉を覚えてからそれが意味するものを探した方が効率がよい。

それには理由がある。第一に、通常であれば、経験するのは言葉を覚えるより手間がかかる。早乙女を観察するためには早乙女たちが実在する時間と場所に居合わせないとならない。教室で座学ばかりしてらんない。

世界は広いし、そこで生じる現象は無限に多様である。それを全部直接に経験するには、人生がちと短すぎる。しかも、人生は一回きりである。日本で生まれ育ったら、もう別の国で生まれ育つことはできない。どう考えても、すべてを実体験することはできそうもない。

第二に、ある現象はすでに失われているか(大化の改新やペストの蔓延をどうやって実体験する?)、もしくは稀にしか現れないかもしれない(革命や富士山噴火などはよほどラッキーかアンラッキーでなければ経験できない)。早乙女のような現象だってすでに過去である。直接それを見るまで言葉にしないのであれば、人の多くは一生早乙女を知ることがなかったにちがいない。

第三に、言葉にはあるけど、決して現象としては現われないものがある。抽象名詞で表されるようなものだ。「美」などというものはそのものとしては決して現れない。それはある美しい物とか人と風景とか音などという形でしか現われない。「社会」「国家」「愛」「自由」「権利」「正義」なんていうものも、実際に目で見、手で触れられるような対象がない。言葉を通じてしか把握できなさそうである。

だから、今日の教育はまず言葉ありきだ。まず教室で本を開いて言葉を覚える。そうしておいて、後になってその言葉が意味したものを実際に体験する。そういう順序で、ぼくらは世界に関する知識を増やしていく。

この文字ベースの教育のおかげで、ぼくらの知識量は飛躍的に増大した。ぼくらは知らない世界についても知っている。というと矛盾に聞えるが、直接体験していない世界についても文字を介して何かを知っているという意味なら、矛盾はない。いくら古代に知者がいたと言っても、量的にいえば今の義務教育を終えた一般人の方がよほど豊富な知識を有している。これを知といってよければ、ぼくらの一人ひとりが優れた知者であると言ってもはばかりない。

言語の知、体験の知

だが、本当にこの二つの知る手順で得られる知にちがいが生じないか。確かに、ぼくらが直接経験できる以上のことを文字を通じて知っている。だけど、それは逆にいえば、文字だけで知っていることのかなりの部分をまだ自分で経験していないし、死ぬまで経験しないかもしれないということだ。

例えば、「早乙女」という言葉をググってみると、「田植をする若い女。転じて広く、おとめ」という定義がまず目に入る。これだけじゃ物足りない人は、次にウィキペディアの記事があって、かなり詳しく解説されている。これを暗記しておけば、「早乙女について自分は(何かを)知っている」と言ってよさそうだ。

だが、「自分は早乙女を知っている」と言えるか。この場合、「知る」は、特定の物や人と直接交わったことがあるというニュアンスがある。その物、その人を直接実体験していないとならない。しかも、ちらっと見かけただけくらいでは「実体験」にならない。ある程度の時間をかけてつき合っていることが含意されている。

この実体験による知は、言葉上の知とどう異なるか。まず言葉になり切れない部分がある。甲という人物を知っているという人に、じゃあ、その人を定義してみたまえと言ったところで、辞書的な定義は出てこない。よく知れば知るほどそうである。よく知らない人であれば「オヤジ」とか「ケチ」とか「リベラル」とか「差別主義者」とか一言、二言で言い切ってしまうかもしれないが、その人をよく知ってる人は、それじゃとても汲み尽くせない面があることも知ってる。

個人ではない「早乙女」のような一般名詞の意味も、実は一言二言で言い合わらすことができない。「田植えをする若い女」という定義を知ったところで、その存在の意味を知ることはできない。なぜ若い女ばかりが、しかも色鮮やかに着飾って、泥田の中で田植えをしてるのか。何にも知らない人がその光景に接すれば驚いて興味を抱く。それで早乙女の意味を知っているような人々に尋ねる。つまり、彼らにとって(彼らの主観において)早乙女はどんな意味を持っているかを知りたがる。彼らの答えが「田植えをする若い女」だけであるはずがない。それは部外者にとっての知、客観的な知である。

となると、実体験において直観的に得られる知と、文字を通じて得られる知とは、少なくとも最初は同一とは限らない。その二つが一致しないと本当に知ったことにならないかもしれない。

深い言葉と深い体験

それなのに、言葉の定義を知っているというだけで、もう十分知っていると判断してしまうことが増えた。人生前半の15年ばかりを教科書や辞典の暗記で費やしてきたような人が、試験での好成績が自分の知の確かさも証明してると勘違いする。知らない言葉があれば、ググるだけ。それで辞書的、百科事典的な意味を知れば、その言葉の指し示すものの知が得られたと思い込む。そんな付け焼刃の知で武装してるつもりになってる裸の王様連が目につくようになってる。明らかに言葉中心の現代教育が産んだ鬼子たちである。

よりによって、この鬼子たちのお気に入りは、「権利」だとか「愛」だとか「国益」だとか「善」だとか、とにかく掴み処のない言葉である。それは何かと問えば、グーグル検索の答えをそのまま返してくる。このなまくらな刀をやたらに振り回して、通りがかる人に片っ端から斬りかかるんだから、たまったもんじゃない。

それもそのはずで、意味のよくわからない言葉だから自分に都合のよい解釈ができる。そういう言葉ばかりが選ばれるのは偶然ではない。そういう人たちの具体的なものに対する感受性が非常に低めなのもまた、偶然ではないだろう。

そんな人たちばかりであればまだよい。腹が立つというだけで、知ることの難しさを身を以て体験した人が見れば、すぐにお里が知れる。だが、知るということは、世間や日常生活における体験に背をむけて、哲学や文学書をたくさん読むこと、そういう言葉をたくさん覚えることであると考えるような者が、真面目に教養を身につけようという人々のなかにも増えている。論語読みの論語知らずである。

そういうぼくもかつてはそうだった。でも、本で覚えた多くの言葉の意味が本当に理解できるようになったのは、かなり年を取ってからである。それも、いろいろな体験を経てからであり、どういうわけだか辛く惨めな体験の後には特にこの効果が大きかった。

説明すると長くなるから省くけど、ぼくの場合には「歴史」とか「自由」のような抽象名詞のみならず、「早乙女」のような言葉さえそうだ。この言葉を聞くだけで、ぼくの中には、恐らく知らない人には想像もできないような複雑な考えや感情が想起される。それ以前はそんな言葉に深い意味があるなんて思いもしなかった。

そういう体験なしで得られる知もたくさんある。また、体験不能であって、論理など言葉上の操作によってのみだけ得られる知もある。だけども、これだけは確信をもって言える。人生の辛酸を自ら味わわないかぎり得られない知がまたあるようで、これがないと人文学の先人たちの言葉の多くは表面的にしか理解できない。ある種の言葉は体験と分かちがたく結びついていて、その体験を知ることなしに理解できないのである。

むろん、つらい経験だけが知を生むわけではない。だが、どういうわけか絶望や悲しみは知りたいという欲求と切り離せない特別な感情である。ぼくが舐めた辛酸などありきたりのものだけど、少なくともぼくが信じていた世界を木っ端みじんにはした。この粉々になった世界を再びつなぎ直すために、手もとにあるいろいろな言葉の意味を再吟味せざるを得なかった。それで今まで大した意味があるとは思えなかった言葉にも注意が向いた。

まずは宗教に関する言葉、死や時間、神などにまつわる言葉だ。それが分かると、哲学上のいろいろな言葉がわかるようになった。そうして哲学上の言葉がわかった上で社会科学に返ったとき、その素材や方法論の意味がわかる。それにしたってまだまだ表面的な理解にとどまっているだろうが、少なくとも以前よりは深く理解できるようになった。

そうやって抽象的な言葉がその基礎となる経験とつながった。絵画を外から眺めてたのが、その絵の中に入り込んでしまった。副産物であるが、そのおかげで文芸書もより楽しく読めるようになった。だから、読書が人生を変えたんじゃない人生が読書を変えた。本が読む対象ではなく、書き手とぼくをつなぐ媒体になった。

そうして得られた後知恵であるが、哲学者や詩人の文章が難解に感じられるのは、ひとつには言語化されない暗黙知が要求されているからである。狭い意味での知性というよりは、体験している人の主観を想像するという共感力の問題であり、その共感力は体験の豊かさと関係してるんじゃないかと、ぼくは考えるようになっている。だが、本を通じて知識を得がちなぼくらに最も欠けているのが、この経験が生む暗黙知なのである(暗黙知については以下リンク参照)。

まとめ

蛇足で余計なことまで書いたが、ぼくが言いたかったのはこうだ。言葉を通じて得られた知識は、まだ本当の知識になり得ていないかもしれない。辞書的な意味を知っていることは、「それについて何かを知っている」ことかもしれないけれども、「それ自体を知っている」ことにならないかもしれない。

言葉に「深い」意味があるというのは、まだ言語化されていない意味が含まれるということだ。つまり、それはまだ「そこにある」知識になっていない。なぜそんな囲い込みみたいなケチなことをするかというと、その知識が体験とか経験と呼ばれるようなものとつながっていて、完全には言語化されえないもの、言語化されると失われてしまうようなものであるからかもしれない。

そんな掴まえ所のないものをぼくらは言葉によって捕えようとしているんであるから、あんまり簡単に腹落ちする話ばかりになるようなら、そもそもぼくらの言葉や体験に「深み」なんてものが本当にあるのかどうか疑い始めた方がいい。

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