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戦争と文化(外から取ってくるか、内にあるものを育むか)

割引あり

戦争は文化の母?

人類の歴史は戦争・闘争の歴史でもありまして、ひとはとにかく互いに争い、奪い合い、殺し合い続けてきました。主体は異なれども、歴史と呼ばれるもののかなりの部分はまさに戦争・闘争の歴史でありまして、これがなくなってしまえば暗記させられるものがだいぶん減って嬉しいんですが、そのかわり人類の歴史がなんだか薄っぺらくもなってしまう。そういうありがたいのかなんだかわからないのが人間のあいだの争いであります。動物の闘争なんかとはちょっとちがいまして、「歴史」というものと深く結びついています。

というのも、われわれが大事だと思う「文化」と呼ばれるものも、どうやらこの戦争や闘争と無関係ではありません。暴力が物を言う戦争・闘争と文化は相容れないもののように見えるんですが、争いによって古いものが壊され、新しいものを生み出す。年老いた支配者が没落して、若々しい後進がそれに取って代わる。技術革新にかぎらず、そういう新陳代謝を促すことによって、戦争は人類の文化発展にも寄与してきた。そのようなことを言う人たちが、右にも左にもいます。

しかし、争いというのは命を奪い、そうでなくとも生活を妨害し、人生を破壊するものでありますから、争いを厭う気持ちというのもまた人類の歴史とともにあったと想像されます。つまり、平和主義というものもまた、戦争とともに人類の歴史である。そう考えられるわけであります。

「想像される」と言ったのは、この平和主義なるものがなにか思想として言語化されているわけでは必ずしもない。だから史料に書き残されてるとは限らないわけでございます。しかし、書き残されたものがないから、そんなものはなかったとは言い切れません。

自分の知るかぎり、今日の平和主義の直接のご先祖は20世紀の二つの世界大戦の産物です。それ以前においては、平和思想というのは主に宗教的なインスピレーションを受けたもので、一部の少数過激派みたいに思われていたようです。すなわち、戦争は絶対悪として全否定するものという主義が一般人にとって当り前になったのは戦後のことであり、それ以前は一般常識としては平和主義は異端であったようなんですね。

しかし、だからといって、いつでもどこでもひとびとが戦争を好んできたわけではない。戦争というのはイヤなもので、なければない方がよい。そういう思いは多くの人の共有されてきたのではないか、と思います。

農民の戦争嫌い

というのも、自分が少しばかり勉強をしてきた農民文化においては、戦争はつねにイヤなもの、迷惑なものであります。これにはそれ相応の理由がありまして、戦争が起こると彼らの生のリズムが乱されます。田畑を焼かれたり、あるいは男たちが徴兵されたりします。しかし、戦争から得られる利益というのは、略奪でも働かないかぎりは、農民にとってはあまりにも不確かなものであります。

いつぞやもお話しましたが、伝統的な農民の行動は、利益の最大化ではなくリスクの最小化という原理に支配されています。危険を冒してより多くを得ようとするよりは、すでにあるものを失わないようにする保守的な傾向も、こうした原理から説明できます。生活は楽ではないかもしれないけども、黙って耐えて田畑を耕して生きていけるかぎりは、わざわざ危険な戦争に賭けて大儲けしようなどとは考えない。そういう意味での平和主義でありまして、宗教的なインスピレーションを源泉とするものとは異質なものです。

この心的傾向は、おそらく狩猟採集民とは異なるものではないか、と自分などは想像しています(どこで狩猟採集文明が終わってどこから農耕文明が始まるかの区分は恣意的にならざるを得ないんすが)。狩猟採集民は自分で作物を育てない。そうではなくて、自然が育んでくれたものに依存している。自然が与えてくれるものには限りがあって、自分の力で増やせるということを知らない。みんなに回るだけの獲物があるうちはよいですが、人口が増えたり食糧源が減ったりすると、ゼロ・サム・ゲームの奪い合いになります。ですからナワバリ争いみたいなものが生ずる。

狩猟民族は好戦的であるというのは、おそらく歴史を書くだけの文明を発達させた農業文明側の偏見が反映されていますが、武装と軍事訓練の比重はより大きかったんではないかと思います。

人類がいかに農耕を始めたのかは、歴史の闇に埋もれてわからないんですが、狩猟採集から農業に移行するのは、どうやら自然法則でもないし必然でもないらしいんですね。というのも、農耕文明と並んで狩猟採集文明にとどまってるひとびとがいます。それは生活様式の選択であって、説明されるべきは、なぜ彼らがそこにとどまったかではなくて、なぜ一部の者は未知の農耕を選んだのかなんですね。

そうやって問いを逆転してみると、その理由として、一つ考えられるのは、人口増加なり環境の変化なりで、食糧が不足がちになったときに、隣人の意志と衝突することなく食糧生産を増やすことができるから、ということが考えられます。狩猟採集に頼る経済においては不可避な競争や闘争を避ける一手段であったわけです。

だからといって、農業文明がつねに平和主義であるというわけではありません。やっぱり人口が増えてくると土地や他の資源の奪い合いが起きる。生活の基盤である土地を持てるかぎりにおいて、農民は平和主義たりえますが、この基盤が脅かされれば、文字通り生死を賭けて戦います。必要に迫られれば、他者から奪うことさえ厭わない。そう考えられます。

だけども、それ以外にも農業文明が軍事化する理由があります。農業文明においては生産性が向上して、余剰が生まれます。そうなれば自分では食糧生産に従事しない階級が生じてきて、社会分業が進む。とくに神官と戦士階級が農民から分かれてくる。そうして農民を支配するようになるんですね。必要に駆られて働く農民と較べて、神官や戦士には自由があります。悪く言うと暇があります。戦争する言い訳はさまざまですが、農民よりは戦争の誘惑に駆られやすいんですね。

ですから、ちがいは農業文明・非農業文明という主要な生業のあり方ではなくて、もう少し抽象的なレベルにある。自分にとってのよいもの(善・財 goods)は常に外にあって、手を伸ばしてとってこないとならないのか、それとも、それらを産み出す力を自分自身の内側に認められるか、です。自分だけで努力して生きていけるのであれば、ひとは必ずしも危険を冒してまで他者のものを脅かそうとは思わないわけです。

文化とは「耕す」こと

「文化 culture」という英語はラテン語起源で、もとは「耕す」という意味です。今となっては妙な話に聞こえるんですが、農業(agriculture)とか園芸(horticulture)というのが典型的な「文化」活動だったんですね。自分の必要とするもの、欲するものを外に求めずに、土地を耕すことことにより得る。自分の有する土地を耕すのに忙しいですから、他人が何をもっているのか、何を享受しているかなんてあまり気にしない。言ってみれば、外に向けられていた意志が抵抗に出会いくじかれて、内向きに反転してるんですね。ですから、農村共同体は非常に内向きな社会でもありました。

むろん、農業にも土地や気候という対象があるんですが、他の人間との関わりは必要ありません。他人を操るんではなくて、自然の摂理と自分の行為の関係、その結果を観察し、長期の損得を勘定して、短期の衝動を抑えて、自分の目的の実現にもっとも適した最適解を求める。狩猟や採集にもそうした要素が皆無ではありませんが、自分が統御できる領域が大幅に広がり、それがゆえに自己統御の必要も増えた。そういう内省革命みたいなものが農耕文明には伴ったんではないかと想像されます。

むろん、この農耕文明とは、まだ土地を所有する人と耕す人が分離する前の、初期の農業文明のことです。自らの土地を自ら耕す独立農民。どれだけ実在性があるのか怪しいんですが、自由思想の系譜を遡ると、どうもそういう理想像に行き着きます。自らの必需品を生産しない坊主、商人、戦士、漂泊民らとちがって、他人に頭を下げる必要もなければ、脅して外から何かを取ってくる必要もないような人々ですね。もし彼らのような人びとが存在したとしたら、上述の意味で宗教的ではない平和主義者でもあったんじゃないか。そういう風に想像することができます。

近代においては、農業に従事する人の数が劇的に減りましたし、残された農民たちも分業体制に組み込まれてしまいましたから、独立農民というのはもはや存在しません。そうして、みんなが坊主、商人、戦士、漂泊民に近くなりました。すなわち、自分が必要とするものを他人に依存しなければならない者の心理的不安を、どこかで感じている人ばかりになりました。農民社会では神の気紛れ(その表象の一つが「運命の女神」)を恐れましたが、現代社会で恐れられるのは人間の気紛れなんですね。そうしてまた、独立農民が有していたであろう平和主義とも疎遠になったのかもしれません。

そういう想像をしてみたんですが、ところが、近代の「文化」というのもまた「耕す」と縁が切れたわけではない。ただ耕す対象が土地から自分自身の精神や肉体にかわった。やはり力を外ではなく内に向けて、自分の中に潜んでいる可能性を育てるんですね。勉学とかスポーツなんかは近代にはじまったわけではないですが、それが人生において占める意味が飛躍的に高まった。その成果に関するものを、ぼくらは「文化」と呼ぶようになっている。

この文化活動は、農業よりもヨリ平和的である。というのも、自分の肉体や精神世界は完全に個々人の所有物であって、いくらそれを拡げようとも、何を栽培しようとも、他人にはまったく影響がない。競争も闘争も伴わない。むしろ、競争や闘争を避ける傾向のある人たちが好んで従事する活動です。みんながそれぞれ自分の田畑を耕すことに専念すれば、喧嘩が起こりようもない。いまの私の生活なんかはほぼこの自分を「耕す」ことしかないんですが、みんながこのような「高等遊民」ならぬ「高等農民」になれば、世の中はきっと今よりずっと平和になるんじゃないか。

そういうことを冗談半分に考えてニヤニヤしていたら、ライプニッツという18世紀の哲学者が、やっぱり同じようなことを書いてる(しかも大真面目に)のを発見しましたから、冗談で済ましてはいけないような話かもしれません。

世界観が衝突する近代の血塗られた政治やネットであまねく見られるクソリプ衝動などに鑑みて、ライプニッツの楽観には全面的には賛同しかねるんでありますが、文化というのは、やっぱり本来は反戦的、平和的なものなのかな、などと思わされたわけであります。

文化は平和をもたらすのか?

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