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女と社会

割引あり

芥川龍之介に雌蜘蛛の生を描いた短篇がある。庚申薔薇の陰に潜んで、何も知らずに蜜を吸いにくる蜂に背後から襲いかかり、その体液をチューチューと吸いとる。見るからに醜くいやらしい、悪の権化とも呼べそうな蜘蛛。

ところが、その蜘蛛は母でもあって、自らの体液をふり絞って巣をつくり、そこに卵を産み付け、子らが生まれるまで、弱った体で飲まず食わずでじっと番をしてる。そのうちに、蜘蛛の子がうじゃうじゃ生れてきて、弱った母のことなど振り向きもせずに、花々に散っていく。それを満足げに眺めながら母蜘蛛は死んでいく。

「女」と題されてるところを見ると、芥川はこの雌蜘蛛を女の象徴として描いたらしい。人間を醜いムシにおとしめてるわけで、女たちにとってははなはだ面白くない話である。だけども、女を蜘蛛にたとえるのは芥川だけの発明でない。自分が覚えてるのは、何十年か前にベストセラーになったある精神科医が書いた本で、そこに蜘蛛をひどく怖がる若い女性患者が出てくる。

その精神科医の分析によれば、蜘蛛は母の象徴として恐れられてる。娘を同等の友人のように扱う気さくな人で、子どもの前で亭主の悪口を平気で言う。自分も自由奔放に生き、子にもそうするよう勧めてくれる。だからその患者も母と仲がよくて、父を軽蔑してた。ところが、いざ自立する年齢になると、父はこっそりと支援してくれるのに対して、母がいろいろと介入してくる。それで気づく。母が今まで自分によくしてくれたのは、娘を自分の友人、子分としてつなぎとめるという利己的な目的ではなかったかと。それで、母の愛がねっとりと絡みつく蜘蛛の巣のようなもの、逃れられない束縛のように感じられるようになった。だけども母への憎しみは心理的に抑圧されてるから、蜘蛛がその代替物とされている。

芥川の短篇にもそういう意地悪なたとえの要素がなくもないが、だけども、そのような解釈とは異質な、むしろまったく逆の要素がある。醜いと思われた雌蜘蛛の営為が、実は完全な自己放棄をともなう愛によるものであり、それがわれわれみんなの生命を支えている。そういう事実に対する驚嘆と畏敬の念が窺えるんである。このマクロな視点から見れば、確かに人間の母たちがやってることもそう変わらないとも言える。

母たちは自分の子らを産み育てるために、自らの生を犠牲にする。いや、自分だけではなくて他人の子だって取って喰いかねないところがある。子らになるべく栄養あるものを食わせようとし、子どもらの安全を脅かす変質者に死を叫び、それなのに子らの心を病ませるほど受験競争に駆りたてるのだって、自分、そして他人の子を犠牲にしてでも自分の子を生かすための闘争だ。

そして、母はこの闘争に精魂を使い果たして干からびていく。母の体液をチューチューと吸いとって生まれてきた子らは、そんな母の脱け殻には頓着しないで、各々好きなところに散っていく。それが生存競争をさらに熾烈なものとする。しかし、その子らもまた母となり、その生の繰り返していく。あたかも母の経験から何も学ばなかったかのように。他人の子を捕えて、チューチューと体液を吸い栄養とし、頃合いを見計らっては卵を産みつけ、そうしてうじゃうじゃと自分の分身を増やすんである。

そう言われると侮辱されてるとしか思えないんだが、芥川の文章には、このような「女」に対する恐れと敬意みたいのが感じられる。生命の営みというものは真剣勝負、大真面目な事業であり、それは女たちのものである。このような恐ろしい事業をなんの迷いももたずに行なえる女たちは、真に恐るべき存在、「恐れない女」であり、知り過ぎたゆえに「恐れる男」が到底太刀打ちできる相手ではない。まさに抗いがたい神的な力に動かされてるのが女性である。

これに比べれば、政治やビジネスや学問・芸術なんてものは、男たちの戯れにすぎない。雄蜘蛛が登場しないのも、罪を雌にだけ押しつけたいからというよりは、男なんか出る幕がないという自己卑下がありそうだ。雄アリや雄バチののように雌を孕ませるまでがその役割で、それがなくなるともう用なしになる。あとは、女たちが子育てで忙しいのをいいことに、政治やビジネスや学芸のような閑事業で無聊を慰めるしかない。そのような思想が背景にありそうで、ちょっと母権社会論っぽい感覚が芥川の「女」には感じられる。

先般、自分はピカチュウやロリコンが近年増殖していることについて書いたが、そのとき母子関係の変化について言及した。そのとき書こうと思って書かなかったことがあって、それはこういうことである。

かつては父が代表した子にとっての社会の権威を、今日では母が代表することが多くなった。その帰結として、子どもたちは社会をより女性的な視点から見るようになった。そういうことも考えてみたのである。

母の視点からみた社会というのは、年輩の男たちに支配された社会である。そこでは女子どもは守られつつも服従を余儀なくされてる。つまり、依存せざるをえないのだが、女子どもの心を平気で傷つけるちょっと冷たい社会である。さらに、威張ってるわりには、女を満足させるほどの甲斐性がない社会でもある。

そういう仮説なんであるが、その証拠としては、平成生まれの男女は「痛み」とか「弱者」なんていうことばに非常に敏感である。何よりも憎まれるのが「加害」であって、新しいことばではないが、自分たちの世代ではこれほど頻繁に耳にも口にもしなかった。たいがい弱者に痛みを与える行為として考えられてる。自分たちを虐げられたマイノリティ(被害者)として見るか、それができなければそのマイノリティの同情者、協力者として見せようとする。つまり、「加害者」と見られることをなんとしても避けようとする傾向が強い。

それが人権とかポリコレといった用語をもって正当化されることが多いけど、自分はそこに何かもっと別なものを、はっきりとことばにされてないようなものがあるように感じてる。それがなんなのかはっきりしなかったんだが、今日においては、多くの男女が社会を女性的な視点から見るようになっているという仮説が成り立てば、次のようなことも考えられるのではないかと思う。

つまり、年輩の男たちが支配する現実社会に対して、女たちの無意識の反社会みたいなものがある。生殖と栄養の領域であり、理性より官能がものいう世界、すべての生けるものが母の子として平等を主張する社会がある。むろん、そこでも生存競争が生ずるが、蜘蛛の子らのように平等な立場でやる。繁殖のための闘争は生命力の表れとしてむしろ歓迎されるが、無意味に生命を虐げるような行為は「母なるもの(個々の母ではなく総体としての母)」に対する冒瀆であり、血をもって贖わさせるしかない大罪である。この生命の横溢のために自己を犠牲にする者こそが、えらい人間である。そういう思想の母体となるような宇宙観にもとづく社会観である。

そうであるなら、今日の青年たちが社会に参入するさいに感ずる多大な困難もまた、おそらくこの二つの社会観の相克からくる部分がありそうである。母の視点から見た社会は、女子どもの痛みや要望に鈍感な社会である。この視点を内面化した子らは、当然社会に対して怖れや反発や軽蔑を強く感じるようになる。「大人になりたくない」と言われるときの「大人」とは、たぶん社会で女子どもが服従を強いられる「年輩の男たち」(むろん、そのような役割を演ずる女たちも含む)のことだ。

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