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自己肯定感はいかに破壊されるか

 自分の周囲では多くのものが日々消滅している。かたつむりやら蝶々やらコオロギなんてものはめったに見なくなった。だが、最近めったにお目にかかれなくなったものの一つにあっけらかんとした子供がある。学校に上がるような年齢になると、すぐにその朗らかさにどこかしら卑屈や不安の影が差してくる。そして、青年になるまでにその影がどんどんと膨らんでいく。

 これは「昔はよかった」という年寄りの懐古の情が生む思い込みばかりではないと思う。今でも都会の子供と田舎の子供を比べると、誰でもすぐに気づくくらい明確なちがいがある。都会の子は老けてみえる。昔から人間は自己否定と無縁ではないが、それがほとんど病的なまでになっているんじゃないかと懸念されるのである。

女工の自己肯定感不足

 そんなことを考えていたら、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』に細井和喜蔵の『女工哀史』からの引用があって、思い当たるところがあった。長いがそのまま抜いてみよう(『女工哀史』が手元にないので、安丸の本からの孫引き)。

 彼女達には、又大体に於て明るい処を好まず、薄暗い処を好く如き傾向がある。⋯⋯彼女達は同じお汁粉を食べるにしても浅草あたりの明るい店へは滅多には入らず、食べ度いのを我慢して本所の暗い家まで帰るといふ調子である。
 それから又、彼女達は現金で物を買ふ場合、掛値がなくて比較的廉く、選択の自由なデパートメント・ストアへ行くことをせず、大概場末の小呉服店で済ます。買ひに行く時間が無い程でもないのに。「三越へ行かうか?」こう言つて誘つても、行かうと答へる女工は百人に一人も無い。
 ⋯⋯彼女達はどうも新しい料理を厭がる傾向をもつ。⋯⋯
 それから又、女工は人を甚くおそろしがる。
 女工は身の廻り一切非常に地味なつくりをする。⋯⋯それで、従つて甚しく老けて見へるのである。平均十くらひは外見だけ老けて見へる。

 なぜそんなに卑屈になるかというと、女工という身分に社会的スティグマが付されていて、「茶屋の女」と同一視される傾向があったからである。つまり、貞操観念の緩い、遊びの対象として扱ってすまされる類いの女であるとみなされていて、彼女らもそれを知っていたのである。しかし、安丸は言及していないが、もう一つ直接的な理由があるように思える。

 工場においては、彼女らは長時間のあいだ監督官(通常、男性であろう)の監視下にある。その間、彼女らの一挙手一投足が工場の効率という視点から吟味され、逸脱は矯正を受ける。その際に、「怠け者である」とか「物覚えが悪い」とか「集中力に欠ける」という言葉を受けることになる。つまり、業務上の効率が人格の道徳的資質に結びつけられる。トイレに立つのさえ嫌な顔をされるから、自分の意志では統御できない生理現象でさえも罪の意識をかき立てることになる。

 このような環境に押しこめられれば、人間は自然な欲求をもつ自分自身に悪を見るようになる。しかし、自身が不幸であるのも自己責任であると言い聞かされるから、憎悪が外だけでなく自分に向かう。「製糸工女が人間なれば/トンボ蝶々も鳥のうち」(高村逸枝『女性の歴史』Ⅱ、安丸に引用)という歌曲は必ずしも皮肉ではないのかもしれない。彼女らは自分たちが人間以下の存在であるかもと恐れていたのである。この心理が彼女らを暗闇に追い込む。

子どもたちが恐れるもの

 今日の子供たちは、この女工と似たような環境に育っている。さすがに明治の工場ほどひどい待遇ではないが、つねに監視下にあって逃れられないという感覚はむしろ強まっているかもしれない。陰で勉強をサボっていても、成績が落ちたとたんに罪が露見してしまうのだから、逃げようにも逃げられない。かつての女工と今日の生徒に共通なのは、「おまえはやれと言われたことをまだやってない」と責める声が内面化されてしまって、その声なき声から逃れられないことである。罪が露呈することを畏れて、彼らは日向を避け陰を求める。なるべく大勢の中に顔のないものとして埋没しようとする。真面目な者であればあるほどそうなのである。

 ここから大きな心理的葛藤を経験することなしに大人になれる者は、いたとしてもごくわずかであろう。この「大人になる」ということは社会の声の内面化を徹底することによって達成される。監督官、先生、親、究極には社会や市場というものの権威を認め、その意志を忖度し、その怒りがもたらす破滅から逃れることに長じることである。

 この努力に対して罰が延期されるだけではなく、報いが伴うと思われるようになれば、一種の愛情を権威に対して抱くようになる。平たく言えば、秀才型のエリートであって、遊びたいのを我慢して勉強する、成績が上がる、親・先生が自分を認めてくれる、さらに勉強するという好循環を続け、一流大学に入って、手堅い仕事につくことができた人々である。

 しかし、多くはこの好循環に乗れないし、乗っても長続きしない。また、仮に乗れたところで、どこかで躓くことことも多い。受験に失敗したり、就活に失敗したり、入る会社を間違えたりすれば、過去の努力も水泡に帰して、延期されていた懲罰が下されることになる。さらには、いかに個人のレベルで努力していたところで、次の国際的金融危機ですべてはチャラになってしまうかもしれない。

自己責任論の重し

 だから、多くの人は自分が失敗であることが証明されるかもしれないという不安にさいなまれ、完全な服従と完全な叛乱のあいだの不安定な状態を維持する。局所的には反抗的たれるが、「社会」から完全に見捨てられることを畏れているので全体としては服従するといった状態である。

 これなどは、まさにミシェル・フーコーという歴史家・思想家が説いたところの、多様な人間を管理するための制度としての主体化された個人の創出である。一神教に根差す罪の観念などなくとも、社会の価値体系が一元化していけばやはり同じような結果を生む。

 この中途半端な従属状態が、自己の道徳的価値の不安視、そしてそこから生ずるさまざまな精神的不安定さを生み出す。内面化された通俗道徳によれば、自分が成功していないのは、自分の努力や節制が足りないからである。世俗的競争の敗者であるということは道徳的劣者であることと等価である。これは、まさにかつて女工が置かれた立場である。

 こんな環境に幼い頃から子供たちを押し込めることによって、ぼくらは彼らを宗教まがいの癒しビジネスとか成功カルトへと追いやっている。世界で何が起ころうとも幸せは自分の心がけ次第だという、えらく無責任なアドバイスをお札みたいにふりまいて飯のタネにする商売がやたらに繁盛するのに手を貸している。

 こう言ってみたところで、管理社会がなくなるわけでもないし、そうである以上、癒しサービスや自助教団に対する需要もむげには否定できない。だが、自分が思うに、「自己肯定感」は心がけだけの問題ではない。人間は社会の中に生まれ育つのであって、社会のあり方がぼくらの心理を大きく左右する。自己を理解し乗り越えていくには、自分がどのような歴史世界に生きていて、そのどこに位置しているのかを知る必要がある。歴史や社会科学などというものも自分と無関係の者に関する知を集めるだけの事業ではない。それがないと、自分の世界での立ち位置が定まらず、自己肯定も宗教信仰に近いものになる。

 暗い通りの奥に隠れている多くの人びとをして、明るい表通りを堂々と歩かしめるようにする。女工の境遇が彼女ら個人の問題以上のものであることを知っているが故に、今日、ぼくらは彼女たち自身が可能であった以上に彼女らの悲哀を理解しうる。それを自分たちの悲哀に向けない理由はない。そうして世の中もまた少し明るくなる。誰の飯のタネにならないような学問にも、そのようなご利益がある。学問や教養が優等生諸君の出世や見栄の手段に堕してはいけない理由の一つではないかと思う。

 で、関係ないけど、この二曲。

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