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「お前って趣味悪いよな」という資格

自分や他人の趣味の良し悪しを云々できるか。あいつは趣味がいいとか、お前は悪趣味だ、というときの根拠は何か。

今日では、こんな問いを口にすること自体が不寛容に感じられる。音楽や食べ物や服飾などの自分の好みについて、ひとからとやかく言われることほど苛立たしいこともない。ましてや他人の好みを押しつけられるのは我慢がならない。

であるから、「人それぞれ」でいいじゃんという寛容が今どきのポリチカリー・コレクト(?)な姿勢であるかと思う。しかし、どうも問題はそこに止まらないんである。

趣味とは

趣味(テイスト)という言葉は、「味」「味覚」から来ている。味覚や嗅覚は理性や悟性ではなく感情に働きかける。だから反省を受けつけない。思う前に感じる。考える前に体が反応している。だから、嫌いな食べ物を説得によって美味しく感じさせることはできない。シイタケ嫌いの私に、シイタケをうまいと感じさせる言葉などない。

美醜を見分ける美的判断もまたこれに近いところがあって、だから「テイスト」が趣味を意味するようになった。なぜこの絵や音楽が好きか言われても、好きだから好き、嫌いだから嫌いとしか言いようがない。

美的判断というのは、自分にも見通せず、ゆえに他人にも伝達できない自分の最内奥から生じるもので、最も純粋に私的なものであるように見える。趣味判断の確固とした根拠はこの闇の中に隠れていて、取り出してくることができない。だから趣味は反省の対象にならない。

政治的意見と趣味

だが、確固とした根拠を欠くのは、美的なものに関する意見にかぎらない。政治的意見も確固とした根拠を欠くことが多い。趣味を云々できないのであれば、政治的意見も評価することができない。

そして、実際に今日の政治はそうなっている。どの政党を支持するか、どの候補者に票を入れるか、あるいはどういう政治体制を望むか。いろいろ理屈を述べ立てるけど、最後は「アイスは苺が好きか、抹茶が好きか」という問いと同じ次元の問題になる。そうなれば「人それぞれよね」と言うしかない。

究極的には、政治には「カワイイ」と「キモイ」という原理以上のものは無いのかもしれぬのである(以下リンク参照)。

しかし、そうなれば政治における意思の統一は不可能となる。後は数の力で押すか(多数決)、暴力・カネによる操作しかない。量的なマイノリティや弱者は常に敗者になる。言論が政治において果たす役割は限られる。

ロゴスとドクサ

哲学には真理(ロゴス)と意見(ドクサ)という区別があって、これが哲学のアイデンティティに深く関わっている。平たくいうとロゴスには根拠があるが、ドクサにはない。哲学者はこのロゴスに関わる人たちであって、ドクサしかもたない凡人たちから区別される。この自己理解が哲学の根底にある。

だが、近代においてはこの二つのものを厳密に区別することがむずかしくなった。数学の原理などを除けば、確固とした根拠をもつ永遠の真理などというものはあまりない。特に、人間の精神に関わる事象(歴史的なもの、社会的なもの)に関しては、確固とした土台がない。

極端な例を挙げれば、ナチス政権下のドイツの哲学者たちである。ハイデッガーのような大物哲学者がナチスを支持した。日本の戦前の哲学者にも戦争に協力した人びとが多かった。

戦後になって、なぜそんなことをしたのかと問われた時に、彼らは「しかし、あの時はそれが正しいように思えた」と答えた。しかし、ほとんど自己破壊的としか思えないような凶悪な政権を支持することが、どうして可能であったのか、後知恵でその結果を知っている我々には理解しがたい。

しかし、歴史の当事者を裁く我々は、一体何を根拠にそれを行なっているか。究極の真理を我々は見出したのか。いや、我々の判断もドクサに基づいていて、将来にはそうやって人に理解しがたいものになるのではないか。

歴史を裁く資格

ハイデッガーの教え子の一人に、ハンナ・アーレントという人がいる。アーレントもまた別の文脈で、「いったいどういう資格で、当事者でない人間が歴史の当事者を裁けるのか」という問題に直面した。

当事者たちがドクサに惑わされていたと断言するには、自分たちがロゴスを会得していなければならない。しかし、そんなロゴスの存在はもう否定されているのではないか。

時間はすべてを押し流していく。物質的存在だけではない。その意味さえも時間の波には抗しきれない。それは美しかったものを醜くいものに転じ、あらゆる価値を貶め、正しかったことを誤ったことにする。

そうなれば、政治的意見も趣味と同じである。ある時代、ある場所ではこれが正しかった。それを別の時代、別の場所にいる人が云々することはできない。「人それぞれ」である。

判断力というもの

アーレントにはこの結論が受け容れがたかった。その問題意識が、カントという哲学者の『判断力批判』に導いた。そして、驚いたことに、趣味の美的判断というもっとも私的で非政治的に見えるものの背後にある政治的なものを取り出してきた。

カントには「三批判」と呼ばれるものがある。従来、彼の政治哲学は第二の批判である『実践理性批判』と結びつけられていた。しかし、アーレントは第三の批判から別のカントの政治哲学を見出そうとする。カント自身が書かなかった政治哲学を。

アーレントによれば、カントは、一見純粋に私的に見える趣味が、実は共同体の共通感覚を基準にしていることを見抜いた最初の哲学者である。しかし、これは実体的共同体ではない。自らは巻き込まれずに舞台を眺める没利害的な観衆の共同体、「人類」である。

少し前に話題になっていたからご存じの方も多いと思うが、ピエール・ブルデューというフランスの社会学者が書いた『ディスタンクシオン』という本があって、「社会的判断力批判」という副題がついている。ブルデューは趣味は階級利害と分かちがたく結びついていることを論証して、カントの『判断力批判』を批判した。

だが、アーレントは、ブルデューとは逆に、趣味の没利害性に注目する。美的判断は利害とは何の関係もないものである。絵画や音楽にはみずからの外に目的がない。それ自体が目的であるから、絵や音楽が美しいか否かという問いは、いかなる目的連関からも外れている。人は絵を愛でるために絵を愛でるのであり、そうではない基準で絵を評価する(例えば、高く売れる絵であるが故に愛する)のは美的判断ではない。

しかし、この美的判断の根拠は何であるか。それは、他人に伝達できるものなのか。共有可能なものであるか。カントはここで「共通感覚」というものを持ち出してくる。英語でいうと「コモン・センス」であるから、今日では「常識」と訳されることが多いが、我々が理解するところの「常識」とは少し異なるので、わざと「共通感覚」と訳し分けられている。

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話の途中であるが、長くなりそうなので続きは次回にしよう。今までは金は無いけど暇だけはあるという状態で満足してきたんだが、さすがに貧乏暇なしになってきた。「更新」が不定期になると思うが、よろしくご理解願いたい。

ヘッダー画像:Philippe Mercier - The Sense of Taste - Google Art Project.jpg

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