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学生さんの「何を学ぶべき?」と「どう生きるべき?」

割引あり

新入生の期待と幻滅

ちょっと出遅れましたが、入学シーズンです。つらい受験勉強をくぐりぬけて、新しく学生生活に期待を膨らませている方々がたくさんいると思います。三十数年前の自分がまたそうでありました。高校までのクソみたいな労働ではなくて、自由に学問ができる。最高学府ではどんな面白い話が聞けるんだろう。たいして勉強熱心でもなかった自分でさえ、ちょっとワクワクしてました。

ところが、この期待が幻滅に変わるのに半年もかからなかった。確かにいろいろと教えてもらって学んだことはあるのですが、それが自分にとってもつ意味がぜんぜんわからなかったし、誰も教えてくれなかったんですね。というのも、それを自分が学ぼうと学ばなかろうと、なんの違いも感じられない。じゃあ、なんでそんなことを学ぶのか。それがわからなかった。そうやって四年間過ごして卒業しても、やっぱりわからなかったんですね。

でも、○○大学で○○学を学んでると言うと、「ほお、すごいね」と感心してくれる人がいます。だから、ちょっといい気になったりするんですが、当の本人は何がすごいんだかぜんぜんわかってない。いったい大学っていうものは何のためにあるんだろうと不思議でありました。自分が大学院に進学して、人生の大半を大学で過ごすことになったのも、実はそれが知りたかったという一面があります。そうでないと、自分の今までの苦労が全く無駄になってしまいかねなかったんです。

新しい学生生活にワクワクしている方々の希望に冷や水を浴びせるような話なんでありますが、放っておくと自分のような経験をくり返してしまう者が、今でも多いんではないか。ですから、もう大学とは縁が切れた自分ですが、学生さんたちと腹を割って話してみたいなと日頃から思っていたことを、ここで文章にしてみようと思います。

学生の今昔

そんなに多くの事例を知っているわけではないのですが、いまの日本の若い学生さんを見ていて感心させられるのは、学業に非常に熱心な方が多いことです。真面目で勤勉である。一例を挙げれば、自分の学生時代と比べても英語力が格段に高い。または、英語にかぎらずいろんな資格や検定を受けている人がずいぶんと多い。

むろん、あくまでも平均的な話でありまして、みんながみんなそうであるわけではありません。比較の対象は自分の学生時代でありまして、相対的にそういう人が増えている印象です。自分も当時としては勉強したほうだと思いますが、それでも勉強と同じくらいの時間を音楽やアルバイトにも使っていたし、資格や検定の類いには無関心でした。英会話学校には通ったんですが、あまり真面目に取り組まなかったので、金だけ使ってぜんぜん身につきませんでした。全体として、高校生じゃあるまいし、あくせく勉強しないのが大学生だ、くらいの雰囲気がありました。

しかし、こうやって教える方になってみると、勤勉な学生さんというのはありがたいもので、「いやあ、学生たるものこうでなければならんな」と自分のことを棚に上げておいて、ほくほくしてるようなところがあります。自分がそうであったような怠け者のくせにクソ生意気な学生なんかには、眉を顰めたりしている。人間というのはまことに自分勝手な生き物です。

しかし、その一方で、ちょっと気になっている点もあります。学び方が受動的なところがあるんですね。昔の学生もそういうところがないわけではなかったんですが、「一生懸命やりますから、自分が学ばないとならないことを教えてください」という姿勢が、熱心なだけに余計に目立ちます。それも能動的じゃないかと言われるとそうなんですが、何を知るべきかという内容の選択に関しては、他人まかせ、あてがい扶持であります。英会話も資格や検定も、誰かに「やっておくといい」といわれたから一生懸命やっているようなところがあります。

ところが、自分が感心している最近の学生さんの特徴がもう一つありまして、非常に道徳的というか、正義感が強いというか、善悪の問題について強い意見を持った方が多い。政治や社会問題なんかにも関心をもっていて、積極的に発言したりする。もちろん、今日でもそんな人は少数派なんですが、やはり相対的には数が増えているようであります。ネットなんかのやりとりでもこれが顕著に見られますから、おそらく一般的な傾向じゃないかと思います。

「今どきの若者は」ということばには「○○がない」とかならず否定がくることになってるんですが、ぼくらの世代の学生は多くのことに自分の意見なんてもってませんでしたから、比較上はこの点でも今の若者の方が昔の若者(つまり今の年寄り)より分があるんじゃないかと思います。

だけども、ここに、ちょっとした矛盾というか不整合みたいなものを、自分は感じています。一方で何を知るべきかについては他人の意見を容れる受動的な人々が、他方ではある点では自分の意見に固執して、他人の意見なんかには耳を貸さずに我が道を行くような能動性をもっている。これが少し不思議なわけです。

というのも、自分にはこの逆の傾向が顕著でした(けっして世代を代表できるような人間ではないですが)。何を知るべきかを親や先生に決められるのがなにより嫌いでありまして、わざわざ権威が指し示さないところに入っていく。大学の授業なんかそっちのけにして独学する。むしろ大学で教えてくれないようなことに興味を抱く。政治学部に所属しながら、政治学じゃないものを多く読んだりする。そういうところがありました。

ところが、何か具体的なことに意見を求められても、ほとんど言うべきことを知らない。その場に合わせて適当なことを言っておく。後でもっとよく考えようと思っていたのかもしれませんが、自分の利害に縁のない話なんてすぐにどうでもよくなってしまいますから、結局何も考えずに終わってしまう。そういうことが多かったように思います。

簡単に言うと、長上の人たちの権威にはとりあえず反抗するという以外には、信念らしきものがなかったんですね。とりあえず反抗のポーズをとるためならどんな信念でもいい。だから、そのためにわざと信念を固めないような、そういうずるいところがありました。

ですから、なんだか強い信念をもっているような人々に対しては、警戒や軽蔑の念さえ抱いていました。「なんだあいつは、年寄みたいに変なイデオロギーに凝り固まって」みたいに感じられたんですね。それがリベラリズムであろうとナショナリズムであろうとソーシャリズムであろうと、なにか一つの信念体系にコミットするのがかっこ悪く見えたんです。そうではなくて、なんでも笑い飛ばすのがかっこいい。そういうちょっとシニカルなところは、たぶんあの時代の若者の一特徴ではないかと思います。

ですから、今の若い人たちが、多くのことにより確固とした意見をもっているのに、何を学ぶべきかについてはたいてい受動的であるということは、一つの変化であります。これが単なる印象論以上のものであるかぎり、なぜそのような変化が生じたのかと問えるわけです。そして、その一見矛盾するような二つの傾向がなぜ共存できるのか、という論理的整合性の問題もあります。

しかし、よくよく考えてみれば、社会に参入する手前の学生さんの変化というのはまた、受け容れる方の社会の変化の反映であります。端的に言えば、景気がよくて労働市場が売り手市場であったバブルの時代に学生だった者と、バブルがはじけた後に労働市場に参入する者のあいだの違いであります。

買い手市場であれば、うかうかしてると売れ残ります。だから他人に少しでも差をつけるために、履歴書にいろいろ箔をつけておかないとならない。学歴なんかみんなもってるんだから、資格や検定などで自分の能力を「見える化」しておかないとならない。いや、まず何よりも、大きな無駄とか失敗をしないように気をつけないとならない。限られた時間を有効に使わないとならない。呑気にしていられない。コスパ、タイパが大事である。この不利な市場における競争圧力を、バブル崩壊以後の世代はひしひしと感じているんですね。だから、何を知るかについても現実的な選択をせざるをえない。

私らしさと道徳的価値

この観点からは、ただ知りたいというだけのことを知ろうとするのは、リスクが高すぎます。そうではなくて、「やっておくといい」ものを知りたがる、教育というのは投資みたいなもので、いつか利子がついて返ってくる。ですから、「学ばないといけないこと」というのは、「将来の収入とか評判なんかを増やすため(あるいは、より消極的に貧困を避けるため)に学んでおくべきこと」という意味でありまして、そうじゃないものは、学びたくないとは言わずとも後回しです。ですから、学生の熱心さの裏には、「自分の立身出世や渡世に役立つ知を選んで、それだけをなるべく簡潔に教えろ、余計なことは教えんでいい」という要求が隠されていると解されます。

自分が少し居心地の悪さを感じるのも、この暗黙の要求を感じとっているからなんですね。なんとなれば、われわれ学者連ほど、これをやるのに不適切な人間は他にいません。われわれはそんなことを考えて学問をやってこなかった。それどころか、それ修めた人の収入とか評判は、真なるものを探求する学問の価値を測る基準としては、極力排除されるべきものとされています。誰の得になろうとも損になろうとも、誰に好かれようとも嫌われようとも、真なるものは真なるものである。儲かるとか名声が得られるという理由で真理や真実への道が左右されてはならんというのが、学問の基本原則の一つであります。だから、たとえ教えてあげたくても、そんなことはよく知らない。

立身出世のため、あるいは貧困や軽蔑を避けるために知を求めることが当り前になってしまうと、真なるものではなくて、潜在的な雇用者、顧客、あるいは単に「いいね」を投げてくれる人の欲しているものが優先して探求されることになります。つまり、自分が追求する価値があると思うことではなくて、誰か他人が「よきもの」だと思うものをもたらす知が探求されるわけであります。そうなると、誰かのためにある仕事をやって禄を食むわけですから、学問などというのもその仕事の延長です。学生生活などというものは、給料をもらわない代りに職業訓練を施してもらう一種の丁稚奉公と大差がなくなる。

でありますから、おそらく、「いまどきの若者」のもう一つの傾向、確固とした善悪の判断基準を有していて、それに固執する、妥協しないという側面は、この「あてがい扶持」から脱して主体性を得ようとする「もがき」みたいなものではないか。自分の想像なんですが、そう思うところがなくもない。なんでも他人の思い通りにこね回されるような生にうんざりしているんですね。そのためには自分の確固たる足場を持たないとならない。それは市場競争における勝ち負けとは別の価値基準に基づいたものでないとならない。それが「儲かる/儲からない」、「好かれる/好かれない」ではなくて、「よい/悪い」を判断する道徳主義に結びつく。

ですから、これも一種の抵抗であります。そこに主体性を見出すことができます。ただ、自分が懸念するのは、この二つの領域がきれいに切り離されてしまっているようであること、これであります。一方で自分が「何を知るべきか」は市場の決定に任せておいて、他方では自分(たち)は「どう生きるべきか」については、自分がたまたま選んだ価値基準を絶対化してしまう。そのあいだの連関が稀薄なんです。

知と生の見失われた関係

でありますから、いまのみなさんには頭の上がらないことが多いバブル世代の人間ではありますが、ひとつなにか言えることがあるとすれば、こういうことではないかと思います。

「何を知るべきか」という問いと「どう生きるべきか」という問いは、本来切り離せないものであります。というよりも、前者の問いは後者から生まれてくるものです。さらに、前者において得られた答えが後者を変えるという形で、ぐるぐるフィードバックしていく。どんなに価値中立的な学問でも、そういう力学が働いているし、働かなくなったら学問は生命力を失う。人生の大半を学問に費やしてしまった者として、自分が学生のみなさんに伝えたいのは、まずこのことなんです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。