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自分で考える。だけども他人の中で考える。

以前に紹介した自分のお気に入りのクリエイターである花さん(自分は勝手に「姫」と呼んでいる)が、忙しい中、久しぶりに文章を書いてくれた。

他のひとは知らぬが、自分などは、遠くの町に働きに行った娘の手紙をまちわびる田舎の親父のような心境で、毎日郵便箱をのぞき込んでいた。便りがないのがよい知らせであると自分に言いきかせながら、空っぽの郵便受けにやはりため息をついていた。そして、いざ手紙が届くと、封を切る手ももどかしく、ハラハラドキドキしながらまずは一読し、元気でやってることを確認し、安心した上でまた何度も読み返している。

田舎の親父の心境

相手が若い女性であるから、あんまり言うと変ないやがらせみたいに思われるが、そんなのが自分にとって姫の存在が意味するところである。奇妙なのは、姫は自分の家族でも旧知の友でもなんでもない。アカの他人であって、どこでどうして育って、どういう風に暮らしているのかさえ知らない。知っているのは、姫の書く文章だけである。

だが、姫自身は気づいてないかもしれないが、姫の書くものには、姫をアカの他人にとって大切な人にしてしまうような力がある。自分の書く文章などにはぜんぜん欠けている力であって、これなどが自分が不思議とするところであった。

今回の便りでは、子どもと大人の境界線の曖昧さについて触れられていた。

大人と子どもの境目はいくつなんだろう、みたいなことを高校生の時に考えていたが、自分がいわゆる「大人」になってから、さらにそのボーダーが分からなくなった。というか、そんな線引きなんて無いんだと思う。

自分もそう思うのであるが、境目は曖昧であっても、人間の精神が成長しているか否か、その場にとどまっているか大人になりつつあるかという方向性は判断できるように思える。そして、ここ二、三通の便りから、姫が何らかの新しい体験を経て、人間として大きくなったと感じることは、親バカだけのせいではないと思う。

完全な大人、完成された人間などというものをぼくらは知らない。だから、この成長が完成に近づいたということなのかどうかは確実には言えない。ひょっとしたら逆の方向に動いているのかもしれない。

だけども、どんなつらい体験でもあっても、それをなかったことにせずに引き受けて和解できたときに、何かがその人の人生につけ加わる。流れていかずに、自分のなかに自分の生きた時間として蓄積される。それを精神的な成長と呼んでも差支えないと思う。

成長を見守る喜び

アカの他人の心の中に入りこんでいって、まるで自分の身内、いつも心のどこかで気になっていて、「そういえば、あの人はどうしたかな」とときどき思い出すような存在になってしまう。その力がこの「成長」ということと関係があると思う。姫は「成長」する人間なのである。成長するものは、それに何の利害を持たない者の心にも快を与える。

姫の文章を読んでいると、まるで姫が自分に代わっていろいろなことを体験し、また自分に代わっていろいろ悩み考えてくれているような気がしてくる。そこにはすでに自分が通ったようなものもあるが、しかし自分などがぜんぜん知らぬ体験や悩みもある。

しかし、その体験を言語化し共有してくれることによって、他者であるわれわれもまたそのおすそ分けに与れるような気がする。自分が通った道を別の誰かがまた通っているのを見て懐かしく思ったり、または自分の経たものとはまったくちがう成長のしかたがあることに気づかされ、教えられたりもする。

だから、直接的に感情移入するかたちで自分を姫に同一化しているんではない。なんといっても姫は若い女性であり、自分にとっては絶対的な他者であり、そういう同一化を永遠に拒む。

だが、だからといって、外から観衆として上から目線でコメディとして眺めて楽しむとか、自分の満足のために消費の対象にしてしまうような心持ともちがう。同情があって、自分にはもう遠くなったもの、自分がなれなかったものへの憧れがある。もう家を出て行った娘を気遣う田舎の親父という比喩が、この距離感をもっともよく言い表わしているのである。

人を成長させるもの

商売柄、自分もいろいろな人の成長を見てきたが、姫は自分が大学院や教壇なんかで出会った学歴エリートの諸君とは、ちょっと毛色がちがう。姫は本の虫とは言えないし、読書から得られる古典的教養などというものはあまりない。教養主義というのが「読書による人格の陶冶」をめざすものであるなら、姫にはあまり教養主義的な要素がない。

にもかかわらず、自分は姫ほど自分で成長していけそうな人をあまり知らぬのである。もちろん読書はしないよりもした方がよい。だが、姫などを見ていると、読書自体が成長(精神の拡張という意味での)の原動力ではない、何か別のものがある、と思わされるのである。それは何であるか。

以前に自分が書いた「言語化能力の高い人」という記事は、姫のことを知ったときに、それに刺激されて書いたものである。

つい最近自分が思い至ったのは、この「言語化する力」は何を隠そう、「他人の中で考える力」であるということである。

理解というのは本来は直観としてやってくる。理由はよくわからないけれども、こうである、こうとしか考えられない、という形である。しかし、この直観のままでは他人に伝達することができない。これに他人に伝達可能な形式を与えるのが言語化である。平たくいえば、言葉にすることによって他人が聞いてわかるようにするわけである。

この言語化する過程で、自分の直観にどれほどの妥当性があるかがチェックされる。理想的な条件下で伝達可能であることが、普遍的妥当性に結びつけられる。現実のコミュニケーションは理想的な条件を満たさないことが多いから、実際に伝達されたかどうかが問題になるのではない。伝達される前でも、他人に共有されうる言葉で表現できるかどうかが、まず妥当性の判断基準になる。

だから、多くの人が分かりやすいことを言う人がより多く「他人の中で考えてる」のでもない。それは、ただ単に薄い内容を伝えているだけかもしれない。複雑なことを言うのは、伝達可能な形にするためにそうする必要があるのかもしれない。それを理解する人が一人でも存在すれば、その内容は伝達可能であり、個人の主観を越えて一般化される可能性がある。

理解というのが本来直観であるならば、相互理解を目的とするコミュニケーションの過程というのは、直観から始まって直観で終わる。言語化された直観は、聴き手・読み手によってまた直観的理解に戻されないとならない。言語はただその直観の位置を示す座標にすぎない。ただ聴いた、読んだじゃなくて、元の直観的理解を自分のなかで再現する力が、理解力とか読解力とか呼ばれるもの、ということになる。

だから、他人の立場に身をおく共通感覚を通じて、聴く力、読む力もまた話す力、書く力と連動してる。前者を養うには後者が必要だし、逆もまた言える。

そして、一般に「考える力」と呼ばれるものは、「他人の中で考える力」のことである。自分で考えるのだが、他人の中で考える。つまり直観的理解を伝達可能な形式にする(言語化)。そうしないと、他人に伝わらないだけじゃなくて、自分も忘れたらもう再現できない。またゼロから始めないとならない。

ひとは、自分が思っている以上に、いろいろ考えてる。だけども、それを伝達可能な形にしないから、表に出てこない。そうして失われてしまう。言語化してはじめて、この考えを伝えられる。より厳密には、言語以外の媒体(美術や音楽など)を使って伝えられるもの、そうでないと伝えられないものもたくさんあるが、だが言語でないと伝えられないものもある。

さらに文字を使えることを覚えれば、頭で一度に処理しきれない思考を保存して伝達することができるようになる。一般に考えられるように、たくさん考える人が書くのではない。書く人がたくさん考えられるのである。書くことに費やす労力を節約しようという奴は、いくら人の話を読んだり聞いたりしても、その効果は限られるのである。

若い人にちょっかい出すひと

姫が「成長できる人」であるのは、自分で考える人だからなのだが、どうもそれだけではない。書くことによって「他人の中」で考えることができる人でもある。そうであるから、多くの人が、姫がまるで自分のために考えてくれているかのように感じることができる。

あまりほめ過ぎて天狗になられても困るし(なぜだか姫はそうならない、天狗になりきれないという確信があるんだが)、不利に比較されたと感じた人が敵意を抱くようになっても困るから付け加えておくけど、自分はこれが姫や少数の者の特殊な才能とは思っていない。誰でも訓練次第で、ある程度まではこの力を身につけられる。努力の量の不足というより、努力を向ける方向の問題の方が大きいんじゃないかと疑っている。教育のしかたがまずいんである。

これは悪い知らせではない、教育に改善の余地があるかぎりにおいて、人間にはまだまだ成長の余地がある。読書の時間が限られた人だって、まだ精神を拡張することができる。姫のような存在が、その可能性を示唆してくれている。姫のような人の成長を傍から見守って、また姫の書くものを多くの人が支持するのを見て、人間の可能性に対する自分の信頼が絶望から救われもする。

であるから、この文章は姫へのオマージュであり、求められもしない返信(ともっと便りをよこせという恥知らずな圧力?)であるが、同時に見知らぬ若い諸君へ向けた自分の便りでもある。年寄りにはひどい奴もたくさんいるが、必ずしも諸君を見下してケチな自尊心を満たすことばかり考えてるようなのが、人生の先輩なのではない。むしろ、諸君の成長に慰めを求める者が多い。

だから、諸君の成長に一枚かんでみたいという欲望を抑えられないのであり、そうできないことに一抹の寂しさを覚えるのである。それはそれで自分勝手な理屈であるかもしれないが、諸君はその弱みにつけこむことができるし、その権利もある。

自分はたまたま書くことを大事にする人間だから姫に恋したが、別の成長のしかたもあるし、そういう成長をする人に恋する大人たちもいるはずである。それを伝えたくて筆を執った。急いで書いたからまとまりがない文章になったが、そういう便りの方が実は正直なところが書かれているのかもしれない。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。