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水晶体に映る記憶vol.8「一人で生きるということに、あえて突っ込むならば」(短編3本)

定期購読マガジン「水晶体に映る記憶」の8つ目の記事です。
このマガジンでは、「今日しか感じ取れないかもしれない有限な感性で、日々の感情や記憶の形を残す」というテーマで文章を書いていきます。週に1度更新します。


本当は先週あった、楽しいことを沢山書こうと思ったこのマガジンですが、より自分の中心に近い文章はなんだろうと思った時、その話題はまた違う形で残したいと思ったので別の話題を書こうと思いたった今朝です。おはよう。

一人で生きるということに、あえて突っ込むならば

家に光があるっていいよね

一人で生まれて死ぬというのは、事実だし、哲学的な言葉としても、推している言葉ではあるのだけど、生まれてから死ぬまでの間に関しては、「一人で生きる」という言葉に、逆に殺されてしまわないようにしなければいけないなと最近になって強く感じる。

(今回のマガジン、ちょっとネガティブな話題になってしまうと思います。)

そんな気持ちを加速させる最近だった気がする。
テレビのチャンネルのスイッチを押せば、瞬きをわすれてしまうほどの信じられないニュースがあって、
スーパーに行けば自分の金銭感覚が狂ったのかと錯覚するほどに物の値段は上がり、
私を含め個人事業主はなんちゃら制度によって数年後生き残れるのかなという具合に、
順調に弱っていくような道がこの先見えていそうで軽く絶望したくなる。
唯一の希望は近所の300円の温泉というような、しかもシャンプーまでサービスしてくれる。

そんな状況で「一人で生きる」という言葉を目の前にすると、途端に冷めた厳しい言葉のように感じてしまう。強くたくましくしなやかな人でありたいと同時に、一人で生きるには到底しんどい社会のように感じてしまうのは、私がまだクソガキだからだろうか。どうなんだろう。

例えば近くに、呼吸の仕方が似ている人がいるとするならば、その人と光を探していきたいなどと思ってしまう。私一人では、明日何食べようかな、くらいの光しか見つけられないのだけど、誰かとならまた違った光を見つけられそうだから。長い長い旅、一人で生きるもよし、途中で誰かと生きるという寄り道をするのもよし、最後は一人という事実は変わらない。

文章を書く時間、を軸にして生きるとすれば

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