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「伝えたい」が書けない理由がわかった。

というわけで日記、読みました。
今も昔も、書き方が全然変わってない!
今は当時よりも語彙や知識が増えた分大人びた文章(あくまで当時の文章と比べて)になりましたが、書き方のクセや内容は、見事なまでに全く変わっていませんでした。
どこがどう変わっていなかったのかというと、以下の通り。

・数字へのこだわり
・感情より事実
・括弧の多用
・時系列が淡々と書いてある

これらについて、すこし書いてみます。


数字へのこだわり

日付、時間、年齢、回数…
日記には、数字にまつわるものが厳密に書いてありました。例えば、

「988円だったので1000円出したらおつりが12円でした」
「第4走者のときは5位、第7走者で3位になりました」
「4時30分から歯医者だったので、3時50分に帰りました」

など。
そこまで詳しく書かなくても…と思わず笑ってしまいますね。特に一番上のものなんて「算数か!」とツッこみたくなります。
noteを見返してみても、「昨日の放送(第59回)」とか「姪っ子(3歳)」とか。わざわざ括弧を付けてまで数字の情報を入れています。
数字は客観的な事実。かつ、人によって基準が違うもの(感情など)ものではありません。つまり、数字はわかりやすい。わかりやすい指標があることで安心するのかもしれません。

数字大好き!

感情より事実

日記にはほとんど、わたしの感情が書いてありません。
赤ペンで

「ゆかりさんがどう思ったのか書いてみよう」

と書かれているほどです。
そうアドバイスを受けた後の日記には「たのしかった」と感情が書いてありましたが、取ってつけ感が半端じゃない。
これは、自分の感情をどう表現したらよいのかがわからないせいだと思います。

”好きなことをしている=楽しい”

感情を理屈で捉えているきらいがあるので、感情について述べるのは得意ではありません。感情は理屈でないことはわかっていますが、「こういう時は楽しい」「ああいう時は嬉しい」と理屈で考えないと、何も言えなくなってしまうんです。
また、何か嫌なことをされた時、その瞬間に悲しい辛いと思いません。後から「あの時悲しかったのかもしれない…」と何の前触れもなく急に自覚するのです。このように、現状と感情がリンクしない時もあります。

感情ってよくわらない。目に見えないから。だから自分が見聞きした事実を淡々と述べる方が好きだし、何より安心します。

括弧の多用

情報をより詳しく書きたいのでしょう。注釈として”( )”を用いることが非常に多いです。
そして、括弧の中身は文の内容に影響を与えるものではない、つまり、どうでもいいことだったりします。
でも、わたしにとってはその「どうでもいいこと」も大事。どうでもいいことも、わたしの目の前で起きた事実だから。

事実は大事。だから書きたい。でも文章にうまく組み込むことができない…だから括弧を多用してしまうのかもしれません。

noteをさかのぼってみても、1記事1回、とまではいきませんが、結構な頻度で括弧を使っています。ぜひ括弧を探してみてください(笑)

筋道が淡々と書いてある

「最初にこれをして、次にこれをして…」
「かれこれこういう理由でこうなりました」

時系列やものごとの筋道が淡々と書いています。
わたしの喋り方もこんな感じです。起きたことを1から10まで全て話してしまいます。話が冗長、というやつです。
わたしは目に見えないものを捉えることが苦手です。頭の中は見えません。だから頭の中を整理したり要点を取り出すことが難しい。
自分でも要点が分かっていないので、順を追って説明する方法でしか要点にたどり着けません。ただ、大体話している途中で自分も自分が何を言っているのかわからなくなるのですが。

話が冗長で要点がわからない。
とてもじゃないけど「読みやすい文章」とは言えません

日記を読んで、書けない理由がわかったような気がします。
相手に伝えるためには「何を伝えたいのか」が大切です。でも、それがよくわかりません。自分の感情がよくわからないし、話したいことはたくさんあるけれど、結局何を言いたいのかはピンとこない。
そして、「伝える」は相手の感情に訴えかけることです。共感してもらいたい、この感動を分かち合いたい、と。わたしにはそうした感覚が欠けているように思います。自分の感情すらよく分かっていないから。これって、「伝える」に対して致命的な気がします。

うーん、これは書けないわけだ。
ついでに言うと、コミュニケーションも円滑に取れないわけだ。

伝えるってコミュニケーションなんですね。
喋るのはひとりでも出来ますが、コミュニケーションはひとりでは出来ません。

難しいなぁ。

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