見出し画像

初めまして、teko-退職高校教員-です。最初に読んでくださいね。

 昭和59年/1984年4月に社会科 政治・経済の高校教員として入都し、以後、教科を変えつつ2024年の3月に退職しました。
 プロフィールにあるように40年間高校の都立高校の教員を勤めたことになります。その間、とある縁で大学の非常勤講師も兼ねることになりました。
 教科替えをしたことによって、その後の教員人生は全く違ったものになったのですが、この教科については敢えて言及しません。お察し下さいませ。

 最初に赴任した学校は5年で異動しましたが、以後は3校しか経験していません。幸いにも一つの学校に10年以上在籍できたのです。これが良いことか悪いことかは考え方によりますが、通常6年で異動のところ、よくぞ長っ尻ができたものだと自分で感心しているような次第です。

 大学には遊んでいたせいで(何とキャンディーズの追っかけしてました!)二浪して、かねてから学びたかった経済学部経済学科に入学しました。どうしてもその頃は既に落ち目であった、マル経(マルクス経済学) を学びたかったのです。そしてその学びを教員になって世に広めれば、少しはましな社会になるのではないかなんて考えて、社会科の教員それも政治・経済の教員になりました。

 例えば、給料は労働の結果貰っていると考える人が多いですが、では、なぜ入社した月の25日に1ヶ月分の給料が出るのでしょう? 月日数が少ない2月も同様です。実は、賃金は労働の対価では無く労働力の値段なのです。といったことを教えたいと考えていたのです。

 残念ながら、世の中は「労働」と「労働力」を区別する事無く使用し、その結果搾取の状態も見えづらくなっているのですが、それで良しとなっているのが凄く恐いと思ってます。

 教員のブラックな勤務実態もここら辺が分からないとなかなか快方に向かわないのでは無いでしょうか?

 脇道にそれました。

 最初に赴任したのは、もう存在しませんがいわゆる底辺校で、それも都立高校の中でも最底辺当たる学校でした。

 文化祭の時には、校門前に族車がずらって並ぶし他校の殴り込みがあったり、煙草で捕まる生徒は日常茶飯事、特別指導が途切れることはありませんでした。

 退学者の数も異常で、毎年学年1クラス分の人数-およそ45名が退学する有様でした。生徒達がこんな様子ですから、ある程度の年齢の教員は皆逃げ出して異動してしまい、全教員平均年齢が確か30歳を下回っていたと記憶しています。

 そう言えば、入試の時も大変でした。煙草を吸うのは当たり前、小競り合いも風物詩みたいなもので、生徒昇降口の鉄網入り扉がこわれるなんて言うこともありましたっけ。

 さらに、この学校に赴任したことにより、生まれて初めて救急車に乗りましたし、パトカーにも乗り事情徴収を受けることにもなりました。また、一命は取り留めたものの、4階から落ちた生徒に直前に声かけをしていたなんていう経験もしました。

 授業そのものは辛うじて成立したものの、私語が激しくなかなか大変な時には、教員用のパイプ椅子を投げるなんていう暴挙に出たこともあります。もちろん、生徒に向けて投げたわけはありませんが、生徒は呆気にとられていました。今だったら、体罰? 行き過ぎた指導? で即刻懲戒免職ですね。

 部活動も、それなりに成立していて楽しくやっていました。(土日に部活、平日も居残りがあったりしましたが、研修日や試験休みもあったし、夏休み中は一切出勤しなくてもお咎め無しの時代ですから....)

 でも、最初にこの学校に赴任できたことを、本当に感謝しています。それまでの自分の人生がいかに恵まれていて、なおかつ「普通」ではなかったことを思い知ることになり、その後、生徒の関わるときに非常に役に立つことになりました。

 ただ、教員に成り立ての若造である自分には、これらの貴重な経験の意味を十分に理解出来ておらず、ドロップアウトしていく生徒は生徒自身が悪いのだと思ってしまう始末でした。

 『腐ったミカン』は取り出して捨てるのは当然だと思っていましたし、今思うと本当に恥ずかしく、また、生徒に申し訳無いのですが、例えば遅刻のの多い生徒の調査書には所見欄に『怠惰な生徒である』とか平気で書いていました。穴があったら入りたいです。

 この学校は、先にも書いたように5年で異動しました。家から遠く、通うのが大変だったので疲れてしまったのです。教員になった2年目位の時、帰りの地下鉄を待っていると、線路の吸い込まれそうになったのを覚えています。星を見ながら出勤し星を見ながら帰宅するのはだいぶ応えました。まあ、そんな事があったので、高速プラス首都高を使って車通勤することにしました。車が大好きなので、早くても遅くても車に乗っていれば、気が晴れましたから。本当は、まずかったのですけど、この頃はあまり問題視されていなかったので助かりました。

 その後も、偏差値が50程度の学校が学力的には最高で、生徒諸君には申し訳無い言い方になりますが、ドサ回りをした感じになります。

 そうした中担当教科を換え、また、家庭内にも色々あったのがきっかけだったのか教育相談系の道に進むことになりました。

 研修は沢山受けましたが専門的に大学等で学んだことはありません。ただ、これまた失礼な話しですが、赴任してる学校は専門書に書いてあるような事例のオンパレードでしたので、実践の中で多くを学ぶことが出来ました。

 結果として、30年間くらいそちらの世界を通して教員をやっていたことになります。

 その経験からか、いかに教員が何も考えずに自己の価値観のみで行動してしまい、あまつさえ生徒をまるで子分や奴隷のように扱うてしまう様子に嫌悪していました。現役時代も無論その流れに抗ってきましたが、退職した今こそ多くの方にこの実相を知っていただき、生徒とひいては教員を楽にしたいと考え、このnoteを始めました。

 時々、大好きな車の話題とか、使ってみて良かったもののつぶやきめいたものが書くかも知れませんが、ご愛敬という事でご容赦下さい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?