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同じ日は存在するのか、クリスマスを添えて | 今日の考え事(2023-12-25)

一昨日、タスク管理に関するウェビナーに参加した。昨日と一昨日もその事について書いたけれど、考え方や生き方に関して信頼できる人の意見を聞けた貴重な機会だったから、それをきっかけに考えたことがいくつかある。その一つは、習慣と記憶についての次の質問のことだ。

毎日同じようなことを繰り返していてあまり記憶に残らないことが気になっています。今日を特別な日にするために工夫していることはありますか?ルーティンではない余白の時間の使い方をどのように決めているのかを教えていただきたいです。

いつも通りの日常と違って、特別な日は記憶に残りやすい。今日はクリスマスだが、一年前のクリスマスの記憶は残っているだろうか。誰かと一緒に過ごしていた、どこかに行った、美味しいものを食べたなどの印象的な出来事があった場合は、思い出せる可能性が高い。しかし、一年前の12月20日のことは覚えていない人がほとんどではないだろうか。

たとえ特別な日だったとしても、それが繰り返されれば特別ではなくなる。毎日がクリスマスだったら、その中のある日の記憶を思い出すのは難しくなるだろう。習慣とは繰り返す行う行動のことであり、だから習慣は記憶と相性が悪いのではないか、ということを考えて上記の質問を行った。

質問に対する答えは簡潔に言えば「毎日が同じようなものだという決めつけがあるのではないか、同じ日は一日もないはずだ」ということだった。禅問答みたいな答えだと思いつつも、話を聞いていると確かにそうかもしれないと思うようになった。

見慣れた景色も、見慣れたロゴも、いつも見ているようでも詳細を思い出そうとすると難しい。記憶を形成するプロセスの第一段階は、対象に意識を向けることだという。いつも見ているものは、脳が「これは新しい情報だから重要ではないな」と思い、特別に意識を向けることをしないから記憶に残らないのだ。

私は目に映る景色を「いつもの景色」と名前をつけて符号化し、それ以上の情報を求めようとしなかった。しかしそこには、間違いなくそれ以上の情報があった。地面に何が落ちているか、どういう草が生えているか、どんな匂いがするか、看板には何が書かれているか、そのような情報は全て同じ言葉の中に一括りにされていた。毎日が同じように思えていたのは、一日を構成する活動に「タスク」という名前をつけて、同じ名前のものは同じ活動だと見なしていたからだった。

見慣れた景色の詳細がどうなっているのかという記憶は、一見どうでもいいことのように見える。しかし、未来や過去に生きられないことを考えれば、そこに生きることの本質があるのではないかと思う。

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