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価値観・書くこと・生きることについて、自問自答する

※ 深夜の自問自答の記録のため、話に脈絡がない部分があります

■ 価値観を言語化したいのはなぜか?

大事なことを見失わないようにするため。例えば「ゆとりを持つことは大事なことだ」と思っていても、生活の中で考えていないと、気づかないうちに忙殺されて自分を見失っていることがある。何を大事にしたいのか、大事にしたい理由は何かを言語化しておけば、それを見て振り返って思い出したときに別の行動を選択することができる。

■ なぜ家庭菜園を始めたのか?なぜ農業をやりたいのか?

理由は色々あると思うけれど、根っこにあるのは「本当に意味のあることってなんだろう?」という純粋な問いだと思う。命ある限りは生きなければならないから、生活に直接的に関わること、生きることそのものに関わることをしたいと思った。あと、重要なものは普段の生活の中にあるという直感のようなものがあった。

■ なぜ文章を書くのか?考えるのか?

自分が何を考えているのかや、どういうことに納得するのかを知りたいから。分かっているようで分かっていないようなことを言葉にして理解したい。いくつかの本を読んで考えたことや、個人的な経験が複雑に絡み合っていて、頭がぐちゃぐちゃになるときがある。

書くことや考えることは、少なくとも「今日の昼ごはんに何を食べるべきか?」という問いに比べると答えがないし、目に見えにくいし、実行もしづらいから、不毛でしんどいなと思うときもある。多分、考えるのをやめたかったら本を読むのをやめたらいいと思う。しかし、考えるのをやめたいという気持ちと、真理を知りたいという気持ちの間で揺れ動いている。

■ 最近、心と体が離れている感じがするのは何故か?

この間読んだ本に「自然の中で過ごすと、離れていた心と体が一緒になる」ということが書かれていて、読んだときはよく分からなかったけれど、どういうことか分かった気がした。今日、散らかっている部屋を片付けたのは、心と体を元に戻す作業だったのだと思う。

食べることや寝ること、つまりただ生きることが簡単にできるようになると、他のことを考え始める。考える対象が「目の前にあるもの」ではなくて「頭の中にしかないもの」になる。頭だけで生きているみたいな感じになる。部屋が散らかっていたのは、頭の中に住んでいたので支障がなかったからだ。気づいてなかったから気にならなかったけれど、心の不調のサインなんだろうなと思った。

■ ピダハンの話

ピダハンという本がある。著者は言語学者・宣教師で、アマゾンの先住民族ピダハンのところに行って、ピダハン語を学んで聖書を翻訳してキリスト教を布教しようとするけれど、逆に信仰を捨ててしまう話。結果にはなんでやねんとツッコみたくなるけれど、ピダハンの直接体験という文化に気づかされることはたくさんあって、なぜ著者の考えが変わったのかを追っていくのも面白い。

信仰をやめた理由は「ピダハンは自分たちの生活に満足していて、誇りを持って幸せに生きている」「ピダハンの文化は科学とも共通することがあって、その文化に触れることで科学と信仰の矛盾に気づいてしまった」みたいな感じだったと思う。ハイライトしたところを引用してみる。

休暇の間、わたしはふたたび伝道の使命のむずかしさを考えた。幸せで満ち足りた人々に、あなた方は迷える羊で救い主たるイエスを必要としているのだと得心させること。バイオラ大学での福音学の恩師、カーティス・ミッチェル博士はよく言っていた。「救いの前に彼らを迷わせなければならない」と。

P410

 信仰と真実という支えのない人生を生きることは可能だろうか。ピダハンはそうして生きている。(中略)何故なら一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席捲している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。
 ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとっての真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。

P420

わたしはピダハンが心配だと言うのを聞いたことがない。というより、わたしの知るかぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない。ピダハンの村に来たMITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会ったなかで最も幸せそうな人々だと評していた。

P426

■ 悩みをなくすには?

悩みをなくしたいのだったら、全てを捨てて自然に飛び込んで、生きることに必死になればいいのだと思う。ただ、そういう暮らしは万人には用意されていないし、それを邪魔する常識と思い込みがある。便利なものを欲しがるのは自然なことだし、一度体験してしまったらそれなしで生きるのは不便だと感じる。

人間は賢すぎたので、食べ物に悩まずに生きられるような高度で便利な文明を作った。いや、作ってしまった。世間的には現代社会は「便利な街の中で幸福に暮らしている」という認識だと思うけれど、実際にはもっと手強い悩みと過ごさなければならなくなっただけだ。哲学や思想、宗教は、自然から離れた人間が、自然と文明の板挟みになりながらもがいてきた営みなのだと思うと、なんだか愛おしくなってくる。

■ ただ生きるために生きることをどうやって肯定したのか?

ひとつ前の記事で「ただ生きるために生きることを肯定できるようになった」ということを書いた。自分でもその理由がよく分からなかったけれど、頭の中に浮かんできたことを書いてみた結果、なんとなく分かってきた。

  • 本当に意味のあることが何なのかを知りたかった。多分それは生活(=生きるための活動)の中にあるんだろうなと思った。

  • 生活がおろそかになると、心と体が離れていって調子が悪くなるから、生きることをちゃんとする必要があった。

  • そもそも心や体の不調の原因は、生活環境が人間に合っていないことが原因だから、自然の中で暮らすことがいいことだと思った。

なんか答えになっていないような気もするけれど、まあいいや。

■ どういう文章を書きたいのか?

どういう文章を書きたいのか良く分からない。でも、書くことは難しくて価値があって、面白いことなのだと気づいた。なぜかというと、書くことは考えることで、考えることは生きることの半分なので(もう半分は動くこと)、人生に直結しているからだ。

つまり「どういう文章を書きたいのか?」という問いは「どうやって生きたいのか?」という問いと同じくらい難しい。逆に、人生という難しい問題の半分を、「書く」という現実的な問題に帰着できると考えると、少し気が楽になった。もっと書くことについて知りたいと思った。

感謝の日記を書いている人は、感謝することを考えながら生きている。僕は何を考えながら生きたいのだろうか。

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