投げた杭は波を漂う | motoi
一番古い日記は、ウサギのキャラクターと小さな花が散りばめられた、ピンク色の日記。小学生に上がる前の子どもが書いた字は、象形文字にも見える。
4歳から日記を書き始め、途中何年も空いたりしたけれど、今も細々と続けている。
日記の良いところは、何と言っても、すっきりするところ。
話を聞いてもらいたいと思うことはあまり無くても、文字に書いて整理したい!は、ほぼ毎日思う。
人に話をするのは、難しい。
物心ついた時から、ひとりで絵を描いたり、本を読んだり。
おままごとも「お母さん役」「お父さん役」「お姉ちゃん役」をひとりでこなして、それが普通だと思っていた。
淋しいと感じなかったのは、全くと言って良いほど、周りを意識していなかったからだと思う。認識していなかったに近い。
だから、高校生になって初めて「他者」を意識した時の衝撃たるや…!
こんな調子なので、「ねぇねぇ今日こんなことあってさ」の方法も効能も分からず、ひたすら自分の中にあるものを文字に、そして作品に、してきた。
数ヶ月前、ある友人から厳しい内容のメッセージをもらった。もう関わることは無いとのこと。かなりこたえた。喧嘩にもならなかった。
メッセージを何度も読み返し、考え、分かろうとした。
何度読んでも、初めて読むかのように胸が痛んだ。
そして先日、別の友人が来訪。
ぼそりと、こんなことがあってさ、とその話をしてみる。
消化出来ていないその話を、聞いて欲しかった。
話を聞いた友人は「そりゃつらいわ!」と、一言。
単純で明快な共感と友人の表情が、しゅわ、と私の身体に染み込んで、その感覚に軽く動揺する。
的が分からないまま投げてみたボールが、すぱーん!と受け止められて、ミットも付けず油断していた私に、すぱーん!と返ってきた感じ。
これが、会話……
これは、ひとりでは得られない…
文字は、杭を打ってロープで繋いでいくように、場所を確認出来、辿ることが出来、分けることが出来る。その正確性が好きで、安心する。
会話は、というかあの時の会話は、どこに杭を打てば良いか分からず、闇雲に杭を投げたようなものだった。
私自身が何を思っているのか分からなければ、どの言葉を使うのが適切なのかも分からなかった。
投げた杭は、地面に刺さった。のではなく、消えた。そもそも、私は地面に立っていなかった。波に浮かんでいた。文字と会話は、そのくらい違う。
来る波に合わせて、その時々で身体の重心を変え、行き先を変えることは、ある意味正確で、ただ事実だった。
会話は流動的で、それ故に懐が広く、ナマモノで、温かかった。
エッセイを書きたいと思ったのは、文字と会話の間を求めたのだと思う。
杭を打つ為には、自分の中を整理し研ぎ澄ます必要がある。それは「私」ではあるけど、正しくは「濾過された私」である。
濾過される前はもっと雑多で、混沌として、道が無い。
だから、杭を打ってきた。
杭を打とうとする話を書いてみたい。
結果的に打たなくてもいい。何かに決定しなくてもいい。問題をそのまま抱えておくのも悪く無い。
投げた杭は波を漂って、どこかに辿り着くだろうか。
私らしい形で語りかけたい。
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