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2023-09-11

いつも同じコンビニを使っていると店員に顔を覚えられそう(実際にもう顔を覚えられているコンビニがある)で嫌なので、毎回少しずつ違うコンビニに行っている。今日はなんとなく散歩をする気分だったので少し遠いコンビニまで歩いた。コンビニへ向かう道のりで、私はこの道を久しく歩いていなかったことを思い出した。

この道は、自分が幼稚園~小学校の頃はよく通っていた道だった。大きな道だったのでロードサイドにはファミレスが何軒かあり、たまに家族で外食しようとなると決まってこの道を歩くのだった。お出かけ以外でほとんど外食することのない我が家だったので、外食はたまにあるレアイベントのようなもので、ずいぶんと心躍ったものである。おかげで、家族みんなでその道を歩いていた時間は、今でも自分にとって楽しい記憶だ。

この道の記憶は他にもある。この道をまっすぐ行ってから少し曲がってまた直進すると、大きな公園に行くことができた。幼稚園~小学校までの自分は公園で走り回ることがずいぶん好きだったので、よくこの道を通った。公園までは少し遠いので向かう時はいつでも自転車だった。一人では危ないので、父か母も一緒だった。

いつだかこの道を歩くことは減った。成長するにつれて家族でする外食の回数も減ったし、走り回るために公園に行くことも減った。おそらく、家族でたまに外食に行ったり、公園に遊びに行ったりしたのは、まだ幼かった私と姉の喜ぶ顔を少しでも見たいという親心だったのだろう。私が中学生に上がる頃にはその道を通る機会もすっかり減り、私はその代わりに電車に乗ってもっと遠くにある学校へと通うようになった。

ふと顔をあげた。幼少の記憶では、この大きな通り沿いにファミレスがあったはずだ。目をやると、私の記憶にあったファミレスは既に無くなっており、代わりに同じ経営母体が運営する全く別のファミレスが建っていた。時の流れと言ってしまえばそれまでだが、なんだか少し寂しかった。

この道は、私の幼少の記憶がそのまま反映された道であった。まだ小さかった私の楽しかった記憶を形作ってきたのは、まさしくこの道であった。コンビニへ向かう道のりは、ファミレスに向かうために家族で歩いた記憶の中の距離感より、ずいぶん短かった。まだ二十年と少ししか生きていないのに、人生の時期によってよく使う道がこんなにも変化するとは、少し不思議なことだと思った。家の場所は変わらないのに使う道だけが変化している。

思い出の中にあったファミレスが今も思い出の姿のままでないように、家族という関係もずっと同じではいられない。私も姉もすっかり成長してしまったし、両親も少しずつ老いていく。たぶん今の私は、小さかった頃の私のように、家族みんなで行く外食を素直に喜んで受け止めることは出来ない。あの頃と同じワクワクを得ることが、年をとるにつれ難しくなっている。

コンビニについた。ここまで来て私はとくに買いたいものなど無かったことを思い出した。手をつないでコンビニから退店する父と子を横目に、私はピュレグミとカルピスを買った。




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