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【読書記録】「中動態の世界 意志と責任の考古学」國分功一郎

ラテン語で形式受動動詞(意味は能動だが活用は受動とほぼ同じ動詞)に触れた際に紹介された一冊。ラテン語の形式受動はタイトルの「中動態」に由来するとされる。古代印欧語には中動態が存在し、歴史的にみると受動態はこの中動態から派生したものと言われる。

筆者は哲学の研究者であり、研究の中で「自発的ではないが同意している」という状態を論ずる場面が多かったため受動態の研究に本格的に着手したようだ。従って本書も言語学より哲学に傾倒している感は否めない。逆に「哲学の本だから全部読もうとしなくていい」と割り切れる側面もある。

中動態とは何か

英語をはじめ現代ヨーロッパ語を学ぶと態 voice には能動と受動があり、それしかないという考えに囚われてしまう。しかし先に挙げたように歴史を遡れば受動態は存在せず、能動態と中動態の対立が存在していた。現代において能動と受動が対立するようにである。

実際に中動態を例示してみよう。ギリシア語に「彼は馬を繋ぎから外す」という表現があって、これを能動態で訳しても中動態で訳しても、訳文は「彼は馬を繋ぎから外す」で同じになる。しかし2つの態で指し示している状況は全く異なる。能動態で表した場合、『彼』は従者などであって、これから主人が乗る馬を繋ぎから外すという動作を意味する。一方で中動態で表せば、繋ぎを外した馬に乗るのは『彼』自身である。

この概念的な違いは一体どこから生じるのだろうか。能動と受動が比較されながら説明されるように、能動態と中動態の違いもこの2つの対比によって説明されるべきである。

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。
中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。

わかりやすい例を挙げよう。「与える」という過程は主語から始まって主語の外(英語でいうところの間接目的語)に終わるので能動である。中動の例としては「出来上がる」などがある。ものが「出来上がる」という過程は終始一貫して主語を内に含んでいる。

能動と中動の両方をとる動詞も検討しておこう。

中動態 δικάζεται 「彼は(原告として)訴訟を起こす」
能動態 δικάζει 「彼は(司法官として)判決を下す」

中動態において『彼』は訴訟を起こすだけでなく、結果としてその裁判の中に原告として巻き込まれることになるわけだから、過程の中に主語が残っている。一方で能動態になると、司法官として判決を下したのちの一切は『彼』の手から離れるので能動である。

特徴的なアナロジー:カツアゲ

本書の哲学的な内容は大変興味深いが言及すると沼るので控えたいところではあったが、中動態の概念を理解するのに大いに役立つ議論があったので紹介する。

能動と受動の対立によってしまうと、カツアゲという行為が非常に奇怪なものとなる。被害者が脅されて「金を払う」という行為の中には、「金を自らの手で渡している」という能動的側面と「金を払わされている」という受動的側面がある。

しかし能動と中動で判断すると綺麗にまとまる。カツアゲをする側の人間からすれば、脅しによって相手に行為をさせるので、主語は行為のプロセスの外側に存在する。一方で脅しによって行為させられる側は行為のプロセスの内部にいるので中動的である。

同様の例として便所掃除がある。銃を向けられて嫌々ながら便所掃除をしている例を考えよう。銃を向けられている人からすれば、断るという選択肢が(非現実的であるにせよ)ある中で掃除するという選択を確かに自らとっているが、そこに選択の余地があるかと問われれば、ないと答えるのが賢明だろう。この場合、銃を向けている行為は行為のプロセスが主語の外で完結しているので能動と解釈される。一方で銃を向けられている人は行為のプロセスの中にいることになるわけだ。

動詞の発生前夜

文中でジャン・コラール「ラテン語文法」から以下のような引用がある。

動詞は我々には文の中枢的要素であるようにみえるが、今日我々が知っているような形でのそれは、実は文法的範疇の中で遅れて生じたものなのである。<動詞的>構文以前においては<名詞的>構文があったのであり、そのかなめは動詞ではなくて名詞であった

その特徴の痕跡として挙げられているものの一つにラテン語のスピーヌム(目的分詞)がある。

Veniō vīsum basilicam Aemiliam.  
私はアエミリウスの会堂を観にくる。

vīsum は動詞 videō「見る」の分詞だが、名詞同様に格変化する。動詞は動作を表す名詞から派生して生じたと考えられる一因である。現代語同様、名詞には人称がない。つまり動詞の人称変化などは後発現象だと考えられる。

この例として it rains などを代表とする非人称構文が挙げられている。元々動詞は須く非人称であった。そこに1人称と2人称が登場することによって語形変化を生じたため、原型だったはずの非人称が例外のように見えてしまっているという。

さらに驚く話を取り上げよう。「自動詞と受動態は、中動態を親にもつ兄弟である」細江逸記の論文から次のような例を引っ張っている。

サンスクリット語 namati は「彼は曲げる」という能動の意味であるが、これを中動態 namate にして『彼』を座として曲げるという動作を表すと "he bends hiimself" すなわちお辞儀するという自動詞的な意味になるというのだ。また namate は身をかがめることを意味するのだから、"he is bent" という受動態をも含意する。ここに、中動態から再起表現、自動詞、受動態の発生を見ている。

同様な現象は日本語にもあって、古語の「見ゆ」「聞ゆ」「覚ゆ」というのは他動詞「見る」「聞く」「思ふ」に対する自動詞だが、受動態を含意している。ここから現代語の「いわゆる」などが説明できると言われれば驚くのではなかろうか。

まとめ

中動態の理解は一朝一夕でできるものではなく、この本を読破してなお中動態と他の区別に自信がない。おそらく古典ギリシア語を深く学ぶなどしなければ、この理解はいつまでもできないだろう。しかし本書を通して「態 voice には能動と受動があり、それ以外にはない」という、意識すらしていなかった固定観念を取り払ってくれた。言語に少しでも興味がある人は、ここで省いた哲学の話も含めて是非に読んでほしい。

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