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家庭医のヒヨコ、療養する-7. 本当の意味で受け入れる

仕事も家庭も順調で30歳なりに人生をエンジョイしていた私は、昨年の6月頃から働くと具合が悪くなるようになってしまい、7月には医師業は愚か食事・睡眠もままならなくなった。
8月に内因性うつ病(特に原因なく発症するうつのこと)と診断され、休職と薬物療法が始まった。

はじめは動けない日々が続いたが、せめて気持ちはポジティブであろうと強く思い、「できること」を見つけることに執着した。少しずつ病前の自分を取り戻せているという感覚にすがった。
昨日よりは今日、長く起きていられる。先週よりは今週、集中して本を読めているといった風に、周囲にも自分にも「良くなっている」と主張した。
11月には年明けの復職を視野に入れるようになった。

そのまま今年の正月休み明けに、診療所の緩和ケア病棟に午前中限定で復職した。病棟にいるだけで楽しいし、職場のみんなは優しいし、勘は衰えていなかったし、休んでいた間の鬱憤を晴らすように働いた。働いてしまった。
そうして気づかぬ間に無理を重ね、復職3日目の朝には体が動かなくなってしまった。主治医に「がんばりすぎちゃったね」と言われ、治療はまた振り出しに戻ったのだった。たった2日しか働けなかった!

また、休職延長に伴って、クリニックで抱えていた業務を改めて「すべて」手放す方針となった。それはつまり、私の定期外来の患者さんを代診で回すのではなく、主治医をまるっと変更するということを意味した。外来患者さんを手放すというのは、私が具合が悪くなるに際して最も恐れていたことだった。

私は外来が好きだった。最も「主治医感」を実感し、また多くの人間と触れ合い、協力し合い、ひとについて学び考える場であった。
それは同時に、最も悩みの種が多く、負担の大きい時間でもあった。

うつ病の発症当時に私の外来に通っていた120人前後の患者さんの中には、私が研修医1年目の頃からの付き合いの方もいた。親御さんを看取ったことをきっかけに私を主治医にした方もいた。お子さんのワクチン接種を進めていくうちに、相談を聞くようになったお母さんもいた。救急外来当番の際に受診し、そのまま私の外来通院を希望された方もいた。
私の具合が悪くなった時期に大事な方針決定を進めていた患者さんもいて、昨年7月に上司から「休みなさい」と言われた時も「定期外来だけは・・・!」と粘ろうとした。当然病気のためにまともな判断ができない状態だったので、あの時上司が強く休みを押してくれてよかった。

話は今年の1月に戻る。休職延長が決まった時、私は私の中にありつつも認めていなかった2つの事実に初めて気づいた。
1つ目に、定期外来の患者さんたちに1日でも早く会いたい、自らが診療したいという思いから、復職を焦っていた。
2つ目に、私はうつ病によって今後の働き方、生き方を考え直さねばならないくらい具合が悪くなっていることを認めていなかった。つまりうつ病を受容できていなかった。

医療の現場では「受容」という言葉を頻繁に使う。患者さんやご家族が、病気のことを受け入れることを指す。当然、毎度すんなりいくものでもなく、ひとによっては自分がかかっている病気によって死に向かっていることを、亡くなる直前まで受け入れられないこともある。

私は精神科の初診時に、主治医に「うつ病です」と言われた瞬間から病気をスッと受け入れたつもりでいた。そのため素直に休み、薬をきっちりと飲み、昼夜逆転しないように気をつけて1日3食しっかり食べた。焦らずじっくり、自分が良くなるペースに合わせて日常を取り戻しているつもりだった。
しかし前述した通りそれは表面的な受容でしかなかったのだ。

発症から半年余り経ち、自分の思い描いていた回復プランが全くもって無茶なものであったことを自覚し、自分でも気づかないくらいこっそり大事に抱えていた患者さんたちへの執着も全て手放して、初めて私は私の病気を受け入れることができた。
そして仕事に行けなくなった日以来、半年ぶりに思い切り泣いた。

うつ病を受容してからの私の回復過程は、それまでと全く違うものとなった。
続きます。


*本文はいち患者の経験談であり、うつ病診療に関する一般的な情報を提供するものではありません。
*NOTEやtwitterで個別の医療相談はお受けしておりません。ご自身のこころの病気について気になることがある方は、厚生労働省のホームページなどを参照されるか、お近くの医療機関への受診をご検討ください。


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