色んな意味で死を恐れた私へ

大学6年生のとき、人工心肺の授業を聞いて
「えっ、人ってもう死ななくなるんじゃない?私はちゃんと寿命を全うさせてもらえるんだろうか」と、近未来的な不安がよぎった私へ。

初期研修医のとき、90代の方が肺炎で入院した際にご家族が「もしもの時や延命治療のことなんて一回も考えたことなかった」と聞いて度肝を抜かれた私へ。一度や二度じゃきかなくて、もう驚かなくなったね。

緩和ケアの研修が始まり、患者さんやご家族と何度も向き合って、その日その日のできたこと、できなかったことで一喜一憂していた私へ。

どんなに医学が発達しても、ひとは必ず死ぬと分かった。
「人生会議」という言葉ができても、議題を上げたらショックを受けるひともいるし、会議をしたところで決定事項は覆るし、思い通りにならないことの方が多いと日々実感するよね。
そして、みんなの心の準備ができていようといまいと、私たちにそのタイミングを決めることはできない現実に何度も直面しているよね。
等しく訪れるのに、その過程は必ずしもスムーズでないから、私は死を恐れるのでしょう、なんて。

なんとなく一旦、終末期に関して行き詰まった感じを抱えた医師4年目の初夏。

そんな中、有名な緩和ケアの先生が読みやすそうな本を出したから、飛びつくように買った。
西智弘先生の、「がんを抱えて、自分らしく生きたい

西先生は、抗がん剤も緩和ケアもやって、病棟も外来も在宅もやって、講演会も執筆もしているスーパーマンとしてよくお名前を耳にする。
この本は、これまで私も幾度となく患者さんやご家族に言われたようなことばが並び、それらに対して緩和ケアの大先輩が、経験とエビデンスを元に解説をしていくという構成になっている。

「本当は家で過ごしたい。でも家族に迷惑をかけたくないから病院でいい。」

「抗がん剤治療を辞めたくない。緩和ケア主体の治療だなんて、私を見放すんですか。必ずがんがゼロになる治療を勧められたので、そっちに行きます。」

「先生、私はもう死を覚悟しました。これからどんどんできることが減っていくのであれば、安楽死を希望します。」

改めて文字にされると、耳が、いや目が、胸が痛い。

医療者でない方にも向けた本で、読みやすいつくりになっているのもあり、今の私が必要としていた本でもあって、数時間で読み切ってしまった。そしてもう一度読んだ。

がんに限らず、死の感触を間近に覚えるようになった人たちの、全てとは言わないけれど、あらゆる思いの表出が書かれていた。
どこかで分かってはいたけど、「ああ、みんなこういうことを言われて、悩んで、悩みながら、終末期を診ていくのか」と、確信を得ることができて、まず安心した。

医療者も、患者さんもご家族も、いつか患者になる人たちも、医療が急速に発達していく中で、なんとなく「患者になってしまったら、できることはほぼない」と思ってしまっているのかも知れない。
西先生は「医療の民主化」を呼びかけていて、まさしくその通りだと思う。患者というラベルを貼ってしまうだけで、個性が弱り、主張が通りにくくなることがあまりにも多い。

確かに、急性期とか、抗がん剤の内容を決めるときとか、医師の考えが優先される場面もあるけど、それが最後までまかり通るのは現実的でないと思う。
自然な死に向かうにつれて、医療にできることは減る。それは悲しいことでもあるけれど、個人の意思が拡張する余地ができるということでもある。患者さんやご家族がその余地を無理なく、でも存分に活用できるような手伝いができる家庭医でありたい。

劇的に新しいことが書いてあるわけではなかったけれど、今の私に必要な言葉がぎっしりと、心地よい余白をもって、詰まった一冊だった。

だから、学生時代の私よ、案ずるなかれ。
私含め、ひとは必ず死ぬし、私は引き続き家庭医として、優しい標準治療の申し子として、医療の民主化を末端で支持する医師として働くのみである。

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