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鑑賞力って、創造の守護神だったんだね。

ここ数年で私が出会ったひとつの才能といえば、
なんといっても「鑑賞力」だと思う。

これは、私自身に鑑賞力が芽生えたということではなく、
そのような才能をもつ人の営みに、新鮮な驚きを
もたらされることが度々あるということ。

ちなみに私には、鑑賞力の異様に高い友人がいる。
(芸術分野で訓練を積んだ人だけど)

音楽でも、美術でも、文章でも、仕事でも、食べ物でも、
人間でも、動物でも、分野は問わず創造的営みに対して、
異様に鑑賞力が高い。

鑑賞とは、五感を駆使して対象を自分の中に迎え入れ、
深く味わい理解すること。
おそらく一般的な鑑賞の定義はこういう感じ。
だけど、友人の場合はちょっと違う気がする。

味わうべきなにかを前にしたときの友人は、
『感性の毛穴の開花』および『呼吸による心身の調整』の後、
実にあっさりと己を空しくして対象の海に身を投じる。

しばらく水面から気配が消え、次に姿を現したときには、
神様とミーティングでもしてきたかのような、
本質を掴んだどえらいことを言うときがある。

私には、そういうふうに見える。
一連の儀式が、実に潔く深いのだ。

何が潔いって、それはもう、
己を完全に空しくできることにほかならない。

創造物のなかに必ず息づいている「神性」みたいなものと、
真正面からコンタクトするには、はっきり言って己が邪魔をする。
(己を空しくすることは、そんなに簡単なことじゃないってこと)

誰だって、自分がかわいいわけで。
自分の承認欲求を簡単に手放すことは、ないわけで。
嫉妬や競争心や批判心を抑えられず、ひっそりマウンティング
しちゃうことだってあるだろう。(正直に言えッ、言うんだッ)

友人の場合、そういう次元をはるかに超えて、
自分の承認欲求(あるのか知らんが)なんかあっさり脱ぎすて、
まっさらな好奇心と探求心と自己信頼に基づいて、
わくわくで「神性」との出会いにダイブする。
その潔さがたまらんかっこいい。
そもそも自分の価値を信じているからできること。

何が深いって、それはもう、
鑑賞の結果を、言葉や行動にできることにほかならない。

創造に対する優れた鑑賞は、それ自体がまた創造的な営み。
創造と鑑賞の尽きない循環は、実に豊かな対話となる。
創造に力を与えるのは、無類の鑑賞力を備える人との
珠玉の対話だと思う今日このごろ。

私自身も、創造する人に力を与えられるような、
純粋な鑑賞力を備えていきたいと思うのである。

鑑賞は創造の守護神。
循環、循環。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「どんなことでも、なんとかなる」「なにごとにも意味があり、学ぶことができる」という考え方をベースに、人の心に橋をかける言葉を紡いでいきます。サポートいただいた場合は、援助職をサポートする活動に使わせていただきます。