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循環する構造

リプチンスキ―の『TANGO』に感銘を受けてから、「循環」というものをいろいろ考えている。

循環する構造は「音楽的」といえる、という話をしたが、「音楽的」とはどういうことだろう。私は、身体的な快が関係するのではないかと思っている。経験的な理解として、身体は繰り返されるものにリラックスし、不規則な動きをするものには緊張する。クラシック音楽の古典は、それを熟知しているように思う。一方で美術、特にルネサンス以降の近代的な美術は、そのような身体的な要素があまり見えてこないように感じる。「見る時間」というのが考慮されない、あるいは視覚が「一瞬ですべてを認識する」ものであるという前提で、作品が成立しているような気がする。ようは、時間性を絵の中から追い出したのである。

絵にも時間性をもたらすことができるのではないか?というのが、私の主張である。視覚芸術においてタブロー(平面)が基礎とされたのは、「一瞬ですべてを把握できるから」である。それは、視覚をカメラのレンズのようにとらえているからである。しかし、視覚とはそのようなものではないのではないか?むしろ、目は「一瞬よりも少し長い時間」で認識しているのではないか。iphoneのカメラには「live photos」という機能がある。これは、シャッターを切る前後1.5秒ずつの映像を記録してくれるものだ。写真よりも長く、映像よりも短い。視覚とはこのようなものではないかと思うのだ。

視覚が一瞬をとらえるものである、という認識は、カメラの発明によって生まれたものなのではないか。タブローはあくまで一つの見方であり、それ以外の形態も考え得るのではないか。そしてそこには、カメラ以降の絵画が追い出した音楽性が復活するのではないかと思うのだ。
(カメラの発明、美術史、視覚に関する研究を参照しているわけではない。これは仮説である。本気で気になり始めたら、これらの文献をあたることになるだろう。なので今はこの文章を真に受けないでほしい。)

視覚芸術の中で、音楽性があるものとして、思いつくのはパターン(柄)である。ウィリアム・モリスのテキスタイルの図案や、着物の柄。これらは繰り返し、時に変化する。布が途切れても、その先には永遠の繰り返しがある。

音楽や絵を「良い」と感じるとき、そこには必ず、身体的な快が伴っていると思う。そうでなければ、どうやって良し悪しを判断しているのか。カントは「美」について、正しく鑑賞すれば間主観的に一致がとれる、つまり、「良さは人それぞれ」といわれるのは、それぞれが異なる身体を持っているからであり、身体を通さずに理性で鑑賞すれば、「美」について一致した見解が得られるということだ。カントのいう「真の美」はよくわからないが、裏を返せば、とりあえず、一般的な良し悪しの判断は身体から来る感覚に基づいているということである。

絵に時間性を取り入れる、というのは一つ私の中では重要なテーマになってきそうだ。今日はこんなところで。


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