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どうしても”感謝”ができない人へ

”人を支える”ということを考えてみた

ふと、思ったことをnoteに書いてみた

人に関わりを持っていると感じるのとは別に、何も感じなくても人から支えられて生きてきているということに、あなたは気づいているでしょうか?

特に、都会で暮らしていると、自分で完結しているものは、1つとしてないと実感することが多い。

住むところを自分で開拓した訳では無いし、食べ物を農地で作った訳でもない。

飲水でさえ、自分で井戸を掘り、川から汲んで飲んでいる人などいないでしょう。

誰かが、周りの人のために、知恵と工夫を凝らして実現した恩恵に預かっているということに気づいている人は、どれだけいることでしょうか?

”当たり前”って言葉を使う人は

最近、耳障りに聞こえることが多い。

そんなもの、1つとしてないのである。

水を例えで考えてみた

温度の上昇により、遠くの熱帯の海水の水分が蒸発し空高く上がり、雲となり、気温変化による風の流れによって、雲が移動して

雨が降り、山の木々たちが、生きるために根に水分を蓄え、その残りを少しづつ、川へと流していく。

その少しずつが、集まり、土の成分の微生物により、少しづつ、自然のろ過をされた水が川へ流れ、モーターや、エンジンの力で1箇所に集められ、大きなプールで、人工的、化学的な力で、きれいな水として、水道のチューブに入れられ、たくさんの人の飲水として、水道管という、人がつくり、メンテナンスされている管を通って、あなたの家の蛇口にたどり着く。

あなたのその手にした水1つをとっても、どれだけの人が、手をかけているものだろうか?

そんなことが、毎日の生活には、何十種類、いや、何千種類あるのだろう。

このことに感謝しなくて、何に感謝するのだろう。

少し、話の切り口を変えるとこうは考えられないだろうか?

最近は、お墓参りをする人がとても、減っている。

たしかに、死んでしまって、ただ、そこに埋められただけの墓石に手を合わせる行為自体は、そこに足を運ぶ手間と時間を考えると無駄と思えるかもしれない側面は持っている。

忘れがちなもう1つの側面に、あなたがそこにいるのは、その先人たちの苦労と工夫があってのものだとも考えられなくもない。

そんな人たちのことを思い、その人たちの見た景色を共有し、同じ地面に立ち、感謝することが時間を使い、お金を使い、手を合わす行為は無駄なものだろうか?

あなたが神様だったなら、あなたが、御先祖だったなら、あなたが、その人の恩恵に預かっている人ならば、

なんて考えれば

簡単に、心を動かすことにならないでしょうか?

”毎日のありがとう”って

忘れたくないものであります。

誰に向けてでもなく、

”ただ、ありがとう”

たぶん、誰かには届いているだろう。

あなたは、知らぬまま、たくさんの人の支えがあって生きてきている。

過去もら今も、これからも


読んでいただいてありがとうございます。あなたの心のどこかに、引っ掛かりが出来れば、幸いです。


感謝する人が、成長できるメカニズムは、人を理解する能力が優れているからでは無いのでしょうか?

もっと大それたことをいうと、

”社会を理解する能力がある”と言えるのかも知らないです

手にしてるもの、大事にしたいですね🙇‍♂️



たくさんの自分の経験があなたのお役に立てれば幸いです。すべて、体験からの学びをnoteにしています。是非、いろんな記事を読んでみてください。