シルッカのモノローグ フィンランドの人・社会福祉・介護 聖書を基として見る 3

モノローグの最後は高齢女性のお話です。
ストーリーはフィクションであり実在の人物・団体などとは一切関係ありません。

シルッカ 90歳

『年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。』 聖書 詩篇71章9節

 今日も訪問介護が来て、薬の処置をして帰って行った。訪問介護が通うようになってもう3年になる。訪問介護が始まった当初、私はアルツハイマー病だと診断され、病状の進行を遅らせる薬イクセロンを処方された。これは毎日交換が必要な貼り付けタイプの薬なので、そのために訪問介護が通うようになった。
 アルツハイマーと診断はされたけれど、頭のCTスキャンを撮ったわけではなく、最近ちょっと記憶に問題がありそうだと心配した妹がものわすれ外来に連絡をし、診断を受け「認知症テスト」もした結果そういう診断をされてしまった。たまたま何らかの理由で特に物忘れがひどかっただけだったのだと思う。夏場の暑い時期に水分を十分に取っていなかったのかもしれない。
 家にやってくる訪問介護の介護者さんたちも、私が普通の認知症患者のようではなく、記憶もしっかりしていてまだ自分でシャワーや料理の温めなどできるので驚いている。他に2型糖尿病も患っているのでインシュリン注射がかかせないけれど、血糖値測定も注射も自分でできるので訪問介護がするのはイクセロンの交換と、朝晩の薬を飲みやすいように小さなパックに入れていくだけ。

 私は1930年に元フィンランド領だったロシアとの国境に近いヴィープリという街で生まれた。冬戦争中にロシアに占拠されてしまい、侵攻してくるロシア軍から私たち家族だけでなく、カレリア地方全体の人々はフィンランド内陸まで逃げなければならなかった。ロシア軍が侵攻してくるまで時間がなかったので、着の身着のままで逃げて、家財も家畜も置き去りになった。その後一度ロシアが占拠をあきらめ、再び家に帰ったがその後事情がまた悪くなり、2回目の退去をせざるをしなくなった。その後もフィンランド国内を転々と動かされ、子供たちだけで戦争を避けるために参戦していなかったスウェーデンに送られたこともあった。スウェーデンではとてもお金持ちのお家に寄留していた。食事の時にはフォークとナイフが何本も出てくるような家だった。スウェーデンでの生活は静かで言葉も早く覚えたし、家の人はみんな優しかったけれど早くフィンランドに帰りたかった。戦争が終わりようやくフィンランドに帰ってくることができ、両親も追われた地からやっと定住する場所が見つかり中部フィンランド、ラハティに居を構えての静かな生活が戻った。

 戦争後しばらくして私は同じくカレリア地方出身の男性と結婚したが、先に子どもができてしまったからだった。当時の若者の楽しみはダンスパーティだから、夫とはそこで出会った。私はまだ17歳だった。未成年の二人が結婚するためには大統領からの許可が必要だった。大人からは「子ども部屋で子どもを産む」とからかわれた。当時は田舎だと出産病院もなく、産婆がやって来て家のサウナで子どもを産み落とした。サウナはフィンランド人のとって神聖な場所で、教会で振る舞うようにサウナでも振る舞わないといけないと言われていたし、清潔な場所なので出産の場所としても使われた。
 夫も若かったけれど一家の主として家族を養わなければならない。まだ社会保障など何もない時代だった。船乗りとして職を得た夫とヘルシンキへと引越しをした。子供も二人与えられて、ヘルシンキでの生活が安定した後は養子も一人受け入れた。
 戦後のヘルシンキは住宅事情が悪く、家を持っている人は一部屋を誰かに強制的に貸さなければならない時代だった。私たちはムンッキニエミのエンジニアのお宅に間借りをしていた。キッチンは家主と共同だったので、エンジニアの奥さんは嫌な顔をいつもしていた。私たちもせいぜい15平米の部屋の中で親子4人がひしめき合って生活していた。当時は多くの人々がこのような生活をしていた。一部屋に大人4~5人で生活しているような所もあった。そのうちに北ヘルシンキにマンションが建て始められ、バスタブ付きの自分たちの家に引越しできた時の嬉しさは忘れられない。

 私は中学校を卒業した後は何の勉強もしなかったけれど、ヘルシンキでは病院の事務の仕事につけた。それから保育園の保育士をしていたけれど、10年たったら子供達の叫び声に耐えられなくなってしまい、思い切って転職して西ヘルシンキのラウッタサーリでカフェを始めた。人と話すことが好きだったから、カフェには常連客ができて経営は順調だった。
 夏休みにはカレリア地方を追われてから青年時代を過ごしたラハティの近くにある街ヘイノラにあるサマーハウスにみんなで行って過ごした。友達たちも招待して、サウナに入り泳いでソーセージを焼き、ビールを飲みながら釣りをしたりゲームをしたり夏の湖畔の夕べを過ごした。森にはベリーがたくさんできたから、ブルーベリーやラズベリーを摘んで過ごした。

 人生は順調なことばかりではなかった。子供の頃生まれ育ったカレリア地方を捨てて逃げなくてはいけなかった事も悲しい事だったけれど、息子の一人は14歳で難病にかかり、数年後に死亡してしまった。その後、もう一人の息子は交通事故に遭い死亡。養子の子もガンになりそれに続いて亡くなってしまった。
 子供三人が孫も残さずに成人するかしないかの短期間のうちに全員が天に召されてしまい、私は神に怒り、神を恨んだわ。なぜ私から愛するものばかりを取り上げるのですか?と。私はそんなにひどい仕打ちをされるくらい、罪人なのですか?神様は答えてはくれなかった。子供達の死は私の人生で重くのしかかる記憶となり、今も誰にも話す事ができない。話すうちに当時の記憶が蘇ってきて、そのことに耐えられそうにないからだ。何年も何年も悲しみが私の心を覆っているが、半世紀以上経った今でもその記憶は癒えることがない。

 私に残されたのは夫と姑。
 幸い姑は元気な女性で、一緒に何回もヨーロッパに海外旅行にも行った。デンマーク、ドイツ、スペイン、そして遠い所は中東まで足を伸ばした。カレリア地方の人は、他の地域のフィンランド人より感情豊かでユーモアにあふれ、いつも歌っていて優しい。カレリア地方出身の人はフィンランドでも「グルメ」で知られており、住む所や着る物が貧しくても美味しい物を食べることには情熱をかけている。誕生日や「名前の日」にはいつもお米が入ったカレリアパイを焼き、テーブルの上をご馳走でいっぱいにして人々をもてなした。彼女からたくさん良いものを私は受けた。

 戦後、ソヴィエト崩壊後にツアーでヴィザを取り、生まれたヴィープリに行けるようになり何回か私の生まれた家を見にいくことができた。街中になかった私の家は誰も住まなかったみたいで崩れ落ち風化して、家の土台部分と古いリンゴの木の他には何も残っていない。周りは草に一面覆われていた。リンゴの木は土台のほど近くに生えている。私はそのリンゴの木から枝を一本とり、持ち帰って植えることにした。他の人たちのかつての家には占領後に送られてきたロシア人たちが住んでいる家もあるようで、その人たちと話したりとかもしたらしい。ヴィープリも戦いの爪痕が激しいまま取り残されてしまい、街のシンボルのお城の塔もボロボロだ。かつて国際的な港として栄えフィンランド人の他に、スウェーデン人、ドイツ人、ロシア人と様々な民族が出入りし、様々な言葉が飛び交っていたが、今はその面影もなく物乞いが行き交う生気のない街となってしまっていた。
 カレリアからの難民となった人たちは住んでいた地域ごとに「望郷会」を作り、年に数回集まるなどコンタクトを取ったり集会をしている。集会で幼馴染に会ったり、離れ離れになってしまった親戚たちと会うこともできるのは、私のアイデンティティにとってとても重要な事だった。

 夫はある日突然動けなくなってからあっという間に亡くなってしまった。息が上がってマンションの階段が登れなかった。肺に水が溜まっていたけれど、医者に行くのを頑なに拒んだ。フィンランド人の男は医者に行くより死を選ぶからだ。寝たきりになってしまっても夫は妻である私に身体介護をさせなかった。夫が天に召されたあと、船乗りだった夫は水葬を希望していたので、火葬した後の遺灰を海に蒔いた。
 一人残った姑は元気にしていたけれど、ある日部屋の中で一回転んでから回復しなかった。一日中寝たきりになってしまたので、朝夕と姑の様子をいつも見に行った。幸い姑はアパートの向かいのドアの向こうに住んでいたので、訪問は苦にはならなかったし、必要ならいつでも駆けつけることができた。昔の気丈な気質の姑は身体介助が必要な時も、ベッド脇に置いた簡易トイレの片付けも私には絶対にさせなかった。訪問介護が来たときには世話をさせたが、嫁の私には一切させなかった。
 そんな姑も90歳でついに召され、私は完全に一人になってしまった。姑の日々の面倒を見ていた私には遺言で全財産を残してくれた。それを聞いたシングルマザーの遠い親戚が、「私のほうがそのお金をもっと有効に使えるわ」と言ってきたけれど、遺言は遺言。書面に残された姑のサインがある紙切れ一枚だけれど、契約は契約。その親戚には姑の遺産は渡らなかった。

 一人になってしまったけれど、友人はたくさんいたからリタイア後の生活は楽しんでいた。コンサートや劇に行ったり、プールに通ったり、愛犬もいたから散歩にももちろん行った。シニア世代になってから出会い付き合った男性もいた。けれど長くは続かなかった。

 10歳私と歳の離れた妹はだんだん高齢になってきた私を心配し、自分たちの家の近くに私を呼び寄せた。私はヘルシンキからさらに引越ししていく事にどうかと思ったし、友人たちも「私たちがあなたの面倒を見るから引越ししていく必要はないわ」と言ってくれたけれど、結局妹の強い言葉に押されヘルシンキのアパートをたたんだ。最初は妹も、よく行き来はしていた。私はだんだん足腰が弱ってきて、エレベーターなしのアパートの3階に住んでいる今はもう介助がなければ、外に出ることができなくなってしまったので、買い物は妹の夫に頼んでいる。このような状態になるだなんて、ここに引越しする前は思わなかった。昼の食事は近くのレストランの宅配でくる。掃除も2週間に一回プロに頼んでいて、この人もよく気がつき助けてくれるので、掃除以外にも色々な事を頼める。妹は病気があるので、最近あまり交流がない。けれどお隣や訪問介護が来てくれるし、電話で友達と話す事はできる。お隣も親切に時々マリメッコのお店に連れていってくれたり、美容院まで付き添ってくれたりしてくれる。
 訪問介護もフィンランド人だけでなくて、いろんな国の人が来る。外国人のほうがフィンランド人よりもおしゃべりが弾むし、色々と気にかけてくれて親切だと感じる。ヘルシンキのやはり訪問介護のお世話になっている友達に電話をよくするけれど、ヘルシンキの訪問介護でも外国人が頻繁に自宅に来るようだけれど、「これを電子レンジで温めて」と言っても通じない人もいるという。幸い私のところにはそういう人は来ないから、よかった。

 もう私も天に召されたいと毎晩ベッドに行く前のお祈りをしているけれど、命を与えるのも取り去るのも、天におられる神さまの御心だから、私の意思だけではどうしようもないのね。いつまでこの老女を生かしておくのでしょうね。


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