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日本語で書くか、英語で書くか、それが問題だ

私は日英バイリンガルだ。6歳から16歳の10年間をアメリカで過ごした事により、母国語に近い状態で英語が身についた。どちらの言語で会話をしたり読み書きをするのが楽かと尋ねられることがたまにあるが、正直どちらとも言えない。

読書は子供の頃から今までずっと日本語の本と英語の本を大体50/50の割合で読んできた。意識的にそうしてきたというよりも、その都度読みたい本に手を伸ばしていたら自然とそういう結果となった。

書いたり話したりする時に使う言語は読書の様に自分の意思だけで決められるものではないので日英の使用頻度は状況によって変動するが、かなり50/50の割合に近いバランスを保ってきた。

今まで働いてきた職場は外資系或いは海外との取引が多い企業がほとんどで、両言語での読み書き会話が求められるポジションを与えられてきた。

仕事を離れた交友関係も日本語しか話さない日本人の友人もいれば共通言語が英語のみの外国人の友人や自分と同じ日英バイリンガルの友人もいる。

現在ほぼ四六時中行動を共にしている夫とは100%英語なので、今は英語での会話頻度が圧倒的に日本語を上回っているかもしれない。

小説を書く時にどちらの言語で書くのがいいのか現在模索している。小説を書くことを初めて試みたのは10数年ほど前で、その頃は迷わず英語で書いていた。それならそのまま英語で書き続ければ良さそうなものだが、ここ一年は日本語で書いている。

初めて日本語で小説を書こうとした時、英語で書いていた時には感じなかった違和感を感じた。何をどう書いてもなんともこそばゆい感覚が拭えない。自分が書いたどの文章もわざとらしく不自然に聞こえた。最近は少し慣れてきて以前ほど違和感を覚えなくはなったが。

そんな事をある友人にこぼしたら、彼女はこう言った。

「英語で書いたらどうですか?以前同じ職場にいた頃思いましたが、トモコさんは日本語を喋っている時と英語を喋っている時では人格が変わる感じでしたよ。」

彼女はそれ以上説明を加えなかったが、恐らく英語で喋っている私の方が表現が明晰だったのではなかろうか。

「小説家という職業」の中のエッセイで村上春樹は自分のスタイルを確立するまでの一つの試みについて書いている。自分の書いた文章がどうもしっくりこない感じだったので、同じ話を英語で書き直し、それを日本語に翻訳してみたら納得いく文体を得られたそうだ。

私の稚拙な作品をいつも読んでくれている奇特な友人がいる。彼女も日英バイリンガルなので以前英語で書いたものも最近日本語で書いたものも両方読んでくれている。彼女曰くどちらかというと英語で書いたものの方が滑らに感じられるらしい。

バイリンガル作家(?)として有名な水村美苗は「私小説 From Left to Right」というバイリンガル小説を出している。似たような試みもありかなと思う。

夫にこの件を相談したら、アメリカを舞台にアメリカ人が主人公の話を日本語で書き、逆に日本が舞台で日本人を主人公にした話を英語で書いてみたらどうかと提案された。これはなかなか名案かもしれない。前出の村上春樹の試みの変形といえる。

次回作は恋愛小説を書こうと思う。
とりあえずは引き続き日本語で。

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