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「永遠のソール・ライター」展 【小説】火曜日の美術館

 わたしはたやすい。たやすく変化してしまう。それができる自分で、よかったのじゃないかなって思っている。心をやわらかくすること。そして新しいアイデアを試してみるのだ。

火曜日の美術館:「永遠のソール・ライター」展


 雨にうたれるのが嫌だったわけではない。機能的なレインブーツも手に入れていたし。もしかして、雪だったら出かけていたかもしれない。その時はビーンブーツを履き、ざくざくと積もった雪を踏みしめて歩く。
 それでも雨で、いくらか体調もよくなくて。(心に咎めるものがあり)
 わたしは、昼過ぎまで、起きるでもなく、うつらうつら、ごろごろ、としていた。

 火曜日は美術館に出かける日だ。パタンナーをやめ、カフェでアルバイトするだけの自分だけれど、まだ、クリエイターとして生きることをあきらめきれていない。
 美術展は、作品を直に観ることは、必ず、自身の創作に活かされると信じている。
 パタンナーに戻ることはないと思うけれど、まだ、自分に期待している。きらめきを掬う感性と非生産的な繰り返しに耐えられる忍耐を持っていると思うから。それはクリエイティブをするための素質。
 どうしてもわたしはわたしのことをヒロイックに扱う。それも、たやすく負ける側の。何度も立ち上がる側の。

 たやすいわたしは、今日、起きることをあきらめてしまった。出かけることをやめてしまった。来週、その展示に足を運べるかな。もし、行くことができたなら、わたしは、ひとつの過去に直面することができる。そして、それを乗り越えたいと願っている。
 今日は負けた。
 明日は立ち上がれる?
(できるよ)
 ふふふ、わたしの内側の声はやさしい。そのやさしさに甘えて生きている。人はそれをモラトリアムというかもしれないし、怠惰だとバッサリ切り捨てるかもしれない。

 ベッドから抜け出し、ブランケットを羽織り、コーヒーを淹れる。食パンが2枚あり、チーズを乗せトーストする。足元のヒーターを入れ、広い作業台の上で、遅い朝食を摂る。
「さむい」
 言葉が落ちて転がる。ヒーターのノイズに消される。マグでコーヒーを飲む。予定のなくなった休日にふさわしい静か。わたしの好む余白。

 マグを片手に、わたしは先日観に行ったソール・ライター展の図録をめくる。正直に言って、紙のチョイスがよくないと思う。それは、実際の展示の中にスライドショーがあったから、なおさらそう思う。
 フイルムの荒く懐かしい柔らかさで見せるより、リバーサルの、彩度の高いポジを高光沢の用紙にプリントした方がいいのじゃないかと思う。なんなら電子書籍化して、高精細のディスプレイで観せた方がいいのじゃないかと思う。

 そのくらい、モダンで古びず、新しい写真。

 この写真展を観る前に、映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』も観ることができた。いくつか印象に残っている場面がある。

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 この写真のプリントを見て、嬉しそうにするソール・ライター。自分の作品を見て喜ぶことができるのって、とてもいいな、と思う。もちろん、そのプリントの出来栄えに満足したという証ではあるけれど、わたしも、そんな喜べる作品を持ちたいと思った。
 そして、この写真は多くの人にとっても印象に残る作品だろうと思う。この大胆な構図は、少なからずわたしにも影響を与えた。この映画と展示を見てから、撮影する写真の質が変わってきたように思うから。

 他にも気になることがあった。それは彼がデジタルカメラを多用していたということ。それはとても意外だったけれど、写真展を観て、得心したところもある。彼のカラー写真は、現代にマッチしている。そして、ある程度未来に行っても、新しいままの作品であることを予感させる。

 部屋は汚い。ポジやマウントがそこかしこに無造作に積まれている。写真展では、そこから発掘された未発表だった作品も展示されている。今現在も整理されているとのことなので、これからも驚きの作品を観ることになるんだろう。

 多くは語られないが、彼の家族のことも紹介されている。ラビだった父のこと。ソール・ライター自身もラビになるための学校に通っていたらしいのだけれど、そこからドロップアウトしたこと。
 ラビとはユダヤ教の指導者。ソール・ライターを見ていると、確かにラビの素質はないように見える。でも、とわたしは思う。そういう人がもしラビになっていたら、伝統と改革の狭間で揺れ、ある種の革命を起こせたのじゃないか。宗教間の融和が図られたのじゃないか。
 ううん、やっぱり途中で退場し、心に正直に生きると思う。でも、とわたしは思い返す。ソール・ライターはナビ派の画家の作品を好んでいる。ラビのことをフランス語ではナビという。ナビ派は実際にそのラビから来ているという。

 そういえば、三菱一号館美術館では、またナビ派の作品が展示されるはずだ。「画家が見たこども展」。これもきっと観に行く。多くの芸術作品に触れれば、違う大きな絵も見えてくる。作家になるのにたくさんの読書が必要なように、芸術家になるにはたくさんの芸術作品を観ることが必要かもしれない。
 ううん、アウトサイダーでいることもできる。こうだ、と決めつけた時点で、わたしは全然アーティストじゃなくなってしまう。
 それでも、知恵の実を齧ったわたしは、ここでよし、として満足することは許されないだろう。学んで学んで、届かなくて、それでも真理を見つけたくてあがいて。芸術の本質をメディテーションではない方法で見つけないといけない。

 ソール・ライターは詩篇を諳んじることができただろうか。タルムードに精通し、律法を皆、覚えていただろうか。

 ソール・ライターの生涯のパートナーも紹介される。ソームズ。彼女の存在は本当に大きい。彼女なしにソール・ライターが発見されることはなかったのじゃないかと思う。ソール・ライターが評価され始めた頃、すでに彼女は亡くなっていたけれど、その才能を疑うことなく、常に励まし続けたソームズ。それがなければ、決してソール・ライターの作品が輝くことは、少なくとも多くの作品が残ることはなかったと思う。
 ソール・ライターのミューズであることは、確かだと思うけれど、それよりもパートナーとしての存在が大きい。売れ始めるきっかけの順序は違うのだけれど、ゴッホの弟テオ、またその妻ヨハンナのような存在ではないのかな、と思う。もしくはダリのパートナー、ガラ。

 ……わたしは、わたしは、それなりにセンスはある方だと自覚しているけれど、マネージメントするような素質はない。ただ、おもむくままに制作する。自己プロデュースしなくちゃならないのだけれど、全然できない。たぶん、それがわたしの弱点だ。せめてユニットでも組めたら、と考えるけれど、そうすると学生時代の苦い思い出が蘇ってきて、思考停止になる。あー、やめよ。古い事象より、新しい感動。ソール・ライターの図録に視線を戻す。

 映画の中でピックアップされていた作品も多く図録には掲載されている。紙質はさておいて、構図の勉強にはもってこいだ。印象的な作品が実に多い。
 窓ガラスの多重の映り込み、青いスカート、曇ったガラス、ビビットな傘、傘、傘。

 写真展でスライドショーが印象的だったことは先に述べた。他には結構、縦位置で撮影された写真が多いことも意外だった。そして、それが素敵なんだ。
 おそらく3:2の比率ではあると思うのだけれど、もう少し縦長にも感じる。それは構図のためだと思うのだけれど、それもあってなおさらモダンに見える。それはスマートフォンでの閲覧に最適なように思うから。
 この展覧会を見た後、わたしはカメラの設定を3:2から16:9に変えた。これから写真の閲覧は、よりデジタルになってくるだろうと思う。8Kディスプレイで鑑賞する時代だ。
 わたしは、そこまでハイエンドなところではなく、手元に浮かんでくる作品を目指したいと考える。インスタグラムのスクエア(だけではなくなっているけれど)とは違うアプローチをしようと。そのための16:9。このアイデアをもらえたことは大きな収穫だった。すぐに結果は出ないにしても、少しずつチャレンジを重ねたい。

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 夕方になっても雨はやまないでいる。外に足を運ぶことなく休日を過ごしてしまいそうだ。
 それもいいか。
 わたしはまだ病気からの回復の途上にあり、心身を休ませることは大事なことだ。

 ああ、でも、雨ならビビットな傘の写真が撮れるかもしれない。
 ソール・ライターに倣うのなら、雨の日は絶好のシューティング日和。
 オーケー。いくらか、クレイジーにならなくちゃ。クレイジーとは言えないか。いくらかアグレッシブにならなくちゃ。
 カメラには100円ショップで買ったシャワーキャップをかぶせる。これで十分防水になるのだって。
 わたしは、顔を洗うのもそこそこに、SPFのそれなりにあるファンデーションだけ塗って、出かける。
 鳥の声が聞こえ出した。急げ、急げ。

おわり


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わたしはまだトリミングに頼ることが必要みたいだ。

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こちらはノートリ。

参考リンク


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