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【短編小説】 蝶の鱗

作 石川 葉
画 茅野 カヤ

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蝶の鱗


 わたしがうたたねをしていると、一匹の蝶が耳元でこう囁く。
「陸にあがったわたしは、人に戻れずに蝶になった。魚になるはずの鱗は、乾いて粉になった」
 声は失わなかったのね、と寝ぼけた声で問い掛けると、蝶の羽音が大きくなる。
「ああ、ヤママユ」
 去ってゆく大きな羽ばたき、怪しく光る翅の目はわたしの姿を捉え続けたまま、開け放しの窓枠をくぐり抜け、外へ逃げてゆく。
 蝶というよりも蛾か。それとも、
「マユ」
 死んでしまった友達だったろうか。
 君の体は相変わらず不在のまま、波だけが繰り返し岸に押し寄せる。夏は足早に過ぎてゆく。
「君は本当に蝶になってしまったのかな」
 探しに行こうか。どこへ? 海へ。
 海へ。
 わたしはキャップを被り、ハイカットのオールスターを踵をつぶしたまま履き、外に出る。カーディガンを羽織ることを忘れたけれど、振り返るのはもう面倒。タンクトップから突き出た肩は太陽にさらされる。湿度の高い空気がむせるように迫ってくるけれど、陽炎はまだ見えない。
 どこからかアゲハチョウが飛んできて、私を誘うように舞っている。もう一匹のアゲハチョウがやってきて、わたしとパートナーを奪いあうよう。やがてアゲハチョウ同士が惹かれあい、ダンスを踊るように揺れあう。わたしは、ただぼんやりと見惚れ、そのうちに蝶の姿は空の向こうへと消えてしまった。
 マユとわたしもアゲハチョウのように舞いあうことだってできたかもしれないな。
「それは無理よ」
 空耳がゆき過ぎる。
 そうだね、とわたしは苦笑いをする。マユは蝶になっても毒舌なんだね。
 わたしは向かう先を変えるために、くるりと踵を返す。
 マユがその姿を消してしまった砂浜の海岸に背を向ける。
 テトラポッドで埋めつくされたコンクリートの堤防に向かって歩き出す。
 釣り人がちらほらと見えてくる。こんな真昼に何が釣れるだろう。釣り糸は垂れたままぴくりとも動かない。釣り人の中の誰かが吸う煙草の煙だけがたなびいている。
 堤防にヒトデが打ち上げられている。
「星になれ!」
 拾い上げて波の向こうに思い切り投げ込んだ。ぽしゃ、ともぱしゃとも聞こえない、ふやけたような音で星は海の中に消える。
 マユはスターにだってなれたかもしれないのに、何をやっているの。
 わたしは突如、強い怒りの感情に支配される。あんなに才能があって、あんなに頭がよくて、あんなにスタイルがよくて、顔だってとびきり綺麗なのに。
 わたしがマユならよかった。それなら、きっと今ごろ東京で、ううん、ローザンヌでだって輝けたかもしれないんだ。
「それは無理よ」
 空耳はわたしをあざ笑うように、耳元ではっきりと形をつくる。
「うるさい! うるさい! うるさい!」
 釣り人たちがわたしの方を向くのも構わずに、わめき続ける。ああ、わたしは堤防のヒロインでいることが関の山だ。
「勝手に死にやがって! マユのバカ! バカヤロー!」
 わたしは叫ぶだけさけぶと、少しすっきりした気持ちになって堤防を後にする。
 わたしは今日も生きなくてはいけないのだ。夏休みの宿題をするんだ。バレエの練習にも行かなくちゃいけないんだ。スイカも食べるんだ。夜はクラスの友達と花火だってするんだ。わたしにはたくさんの予定があるんだよ。マユにかまっている暇はないんだ。
「淋しいことを言わないで」
 うるさい。
「わたしと遊ぼうよ」
 今度は鮮やかな緑色の蛾になって、わたしを威嚇するように飛び回っている。オオミズアオ、マユが変化しそうな美しい蛾だ。
「ねえ、浜辺へ行こうよ」
「いやだよ。わたしを海の中まで連れてゆくつもりでしょう」
「あら、わたし、海の中でも、空でも、とてももてるのよ。マリがいなくても平気よ」
「じゃあ、なんでわたしを誘っているのよ」
「いやだなあ。マリがわたしを呼んだのでしょう?」
 鮮やかな翅の蛾は、ゆったりと羽ばたく。
 わたしは仕方なしに、砂浜のある海岸線へ足を向けることにする。
 わたしに先立って歩くマユは、くるくると体を回し、鳶色の髪の毛を豊かに踊らせて跳ねて進んでゆく。制服の、青いスカートのプリーツが綺麗な弧を描き、その円が瞳のようになってわたしを見つめている。
「マリ、聞いたよ。アキラ君にふられたんだって?」
 緑色の蛾は楽しそうに舞っている。
「アキラ君はマユのことが忘れられないんだって」
「ふふふ、知ってる。彼、わたしに夢中だったもの」
「じゃあ、なんで……」
 マユは振り向いて、唇に人さし指をあてる。そしてはぐらかすようにこう答える。
(こんな風に死んでからも遊んでくれるのはマリだけだもの)
「ねえ、マユ、これはわたしの想像なんだって。ただの妄想なんだって」
「それでもいいのよ。わたしをいきいきと思い出してくれるのはマリだけよ、本当よ。それがとても嬉しいの」
 それは君が勝手に死んでしまうからだよ。みんな少しずつ君のことを忘れてゆくんだ。そのくらい分かるでしょう? ねえ、なんで死んだのよ。ねえ、それを教えてよ。
 タンクトップからひょろりと伸びたわたしの二の腕に汗が流れる。
「日焼けしたりしたらマチ先生に怒られるでしょう」
「ほんと、マユは真夏も真冬も真っ白だったよね」
 一瞬、唇まで真っ白のマユの死体が、わたしの瞼の後ろに閃くように映った。
 もう緑色の蛾の姿はなかった。
 わたしは浜辺へ行くことをやめて、家に帰ることにした。そう、わたしにはやらなくてはいけないことがたくさんあるのだ。

 マユはバレエダンサーとして一流になれる素質を持っていたと思う。少なくともわたしの目にはそう映っていた。
 彼女が主演した最後の演目は人魚姫だ。声を失い、恋人は手に入れられず、最期は泡になって消えてしまう。
 今になって思えば、彼女の最期を予知していたような演目だ。でもあの時、そんなことを考えていた人は誰もいなかっただろう。マユの人生はきらきらと輝きを増して、ありとあらゆるものを手に入れられる未来だけを、握りしめているように見えた。
 マユも泡になって消えてしまったのだろうか。ううん、きっとそんな綺麗には死ななかっただろうと思う。たくさんの魚や虫に食べられて、匂いを放ちながら腐っていっただろう。でも、もしかしたら、とわたしは思う。冷たい海流にさらわれて深海のどこかで今も美しいままの白い肌で、眠ったままの姿で彷徨っているのかもしれないと。

 あの日、マユはバレエの教室に現われなかった。学校の授業や友達との約束はしょっちゅうすっぽかす彼女だったけれど、バレエにだけは真摯に向かい合っていた。誰よりも早く来て準備をはじめ、一番遅くまで練習を続けていた。ダンサーとしては、やや小柄であったけれども体はよくしなり、体の全てが計算され尽くした美しい曲線で描かれているようだった。丸だけで構成される歯車というものがあるのだとしたら、彼女がそれを体現しているのじゃないかとわたしは思う。
 そんな練習熱心な彼女が、稽古場に時間を過ぎても現れないというのは一大事だった。折からの強い風がわたしを強く不安にさせた。遠くに鳴っていた雷が、もうわたしの頭上にまでやって来ていた。

 夕立は三〇分も続かなかったと思う。一瞬で立ち去った後、いろいろな種類の蝉が一斉に鳴き始めて、なんだか眩暈するような気分になったことを覚えている。

 砂浜にコンバースのハイカットの白いオールスターが残されていた。雨にさらされたはずのそれは、しかしおろしたてのように真っ白だった。そのスニーカーはすぐにマユのものだと知れた。海に向かうように揃えて置かれていたそれ以外に、彼女の遺品は見つかっていない。果たして海に入ったのかどうかもしれない。その日以来、彼女は忽然と消え続けている。

 今も交番の掲示板には、彼女の写真が貼り出されている。わたしが思い出すマユの面影よりも少しういういしく見えるのは、中学入学当時の写真が使われているからだろうと思う。わたしは毎朝その前を通り、毎朝マユのことを思い出す。日曜日と長い休みの間だけ、彼女のことを忘れる。

 彼女のことを少しも思い出さなかった日のことだったと思う。
 あれは春休みの頃だ。
 春一番はとうに吹き終わっていて、温かくなったり寒くなったりを繰り返している頃。桜の蕾がすぐにもほころびそうな、そんなうららかな日。わたしは今日のように自分の部屋で、窓を開け放してうたたねをしていた。
 仰向けに寝ころぶわたしの顔に、何かが覆いかぶさったのが分かった。慌てて飛び起きて顔をこする。
 それは生き物ではなく、汚れているものでもなかった。つばの広い、やわらかな麦藁帽だった。わたしはそれを手に取って、不思議な思いでそれを眺めていた。そよ風の優しい日なのに不思議だわ、と思いながら回し眺めて、青いリボンに見覚えがあることに気付いた時に戦慄した。手がわなないて震えるのが分かった。
 これはマユの麦藁帽だ。
 彼女の失踪当時、よく被っていた麦藁帽子で、やけにつばの広いそれをわたしは揶揄するように、女優帽、と呼んでいたのだった。
 わたしは慌てて、窓の外に体を投げ出した。辺りをぐるりと見回しても動く影はひとつも見えない。
 ゆるい電線の列と隣の一戸建ての家。その庭のからたちの木。
 ウグイスが近いところで鳴いていた。姿は見えない。
 しばらくの間、その景色を眺めていたけれど、何の変化もなかった。あきらめて部屋に体を戻そうとした時に、何かがわたしの視界を掠める。
 モンシロチョウ。
 ウインクするように羽ばたいて、それはすぐにどこかへ行ってしまった。

 その日以来、マユは蝶や蛾の姿を纏って、わたしの元へ遊びに来るようになった。彼女が言うようにわたしが呼んでいるのかもしれないし、わたし自身が自覚しているように、ただの空想かもしれない。それはそれで構わないことだった。マユと話していると明るい気分になった。それは生前の彼女と話しているのと変わらない気持ちだった。
 目の前に山積みになっていること(宿題や、友達の新しい洋服の褒め方や、難しくて、いつまでたってもさまにならないパの跳び方など)をその間はすっかりと忘れることが出来る。
 麦藁帽は、実態を伴ってわたしの部屋にあり続けた。かぶったりしたらわたしも消えてしまいそうに思えて怖いので、そのままにしている。蝶の姿でやって来るマユが、会話の中で麦藁帽のことを少しも触れないから、どこかでいつもほっとしている。
 麦藁帽は汚れもくすみもなく、青い色のリボンも鮮やかなままで、褪色の気配もない。

 わたしのバレエが一向に上達しないのも、マユが遊びに来てくれる理由なのかもしれなかった。
 同じバレエクラブでマユとライバル関係にあった子は、マユがいなくなったことをあからさまに喜んだ。毎日のようにこれでわたしの時代が来るわ、と勝ち誇っていた。
 そんな風に思えるなんて、それはそれですごいことだなあ、やっぱりこういう世界で生き残るには気が強くなくちゃダメだよね、と落ち込んでみたりもしたのだけれど、少しした頃、ちょっとした事件があった。
 彼女が何でもない平地で転んで、足の骨を折ってしまったのだ。当然、罰が当たったのよ、と陰口をされまくることになる。
「綺麗な青い蝶をよけようとして」
 その台詞を聞いた時、なんたる乙女のプライド! とわたしは感嘆したものだったけれど、麦藁帽の一件以来、あれはマユの仕業だったに違いない、と確信している。

 マユはわたしにとって恋のライバルでもあった。もちろんライバルに名乗りを挙げることすらできないほど、勝負の行方は明らかだったけれども。
「アキラくん。わたしとつきあってください」
「え、あ、ごめん、誰?」
「あ、ごめんなさい。マユが忘れられないのでしょう。ごめんね」
「マユ? ああ、ごめん、呼ばれてるから」
 アキラくんはさっとわたしの視界から外れ、友達のところへと去ってゆく。悪いことをしたな。マユのことを思い出させてしまった。

「ねえ、マユ、恋とバレエと勉強と、世の中のありとあらゆるものをうまくいかせる方法を教えてよ、あなたみたいになりたいのよ」
 夜陰にまぎれてやって来る白い影。アメリカシロヒトリは、はっとするほど白い鱗粉を撒き散らす。
「あら、簡単よ。わたしがいつも何をしていたか思い出してみたらいいよ」
 アメリカシロヒトリは触覚を数度こすり合わせた後、闇夜へ消えてゆく。

 マユはとても祈る子だった。バレエの発表会の時はもとより、練習前にも試験の前にも授業の前にも、食事の前にもひたすら手を組んで祈る。
 発表会の後のカーテンコールの時には、主よ、と小さくうたうように声に出し、両手の人さし指を天に掲げた。
 マユがどんな信仰を持っていたのか、わたしにはよく分からないけれど、信仰を持っているという事実は、彼女自らの入水、つまり自殺という線の根拠を揺るがせた。未だに警察では、事故と事件の両面での捜査が続けられているという。ただ、わたしはそれには異を唱えたい部分がある。それはマユにこう聞いたことがあったからだ。
「死にたいと思うこと? それはあるよ、わたしだってかよわい人間だもの。まあ、魂は救われているから、もう自殺したってかまわないのだけれど。でも、それじゃあ色んな人を、もちろん神様も悲しませることになっちゃうから、そんなことはしないけれども」
 自殺はしないよ、と言ってはいるけれど、自殺してもいいとも聞こえる。
 いずれにしても、君がいなくなって悲しんでいる人は本当にたくさんいるから、君が懸念していたことは正しかったということになる。
 わたしは海の中を漂うマユの姿を上書きする。真っ白の彼女の体は、胸の辺りで両の手を組んで今も祈りながら漂っている。魚の群れがやって来て、先頭から順番に彼女の頬にキスをしては、もう一度群がって泳いでゆく。

 そうそう、バレエ教室の骨折をした友達、今ではめきめきと力をつけて、どうやら大手からスカウトもあったみたい。骨折が治ってからというもの、マユのことはひと言も話さなくなったし、それまで以上に、というかマユ以上に練習に励むようになった。練習の鬼、般若。
「マユが何か魔法でもかけてあげたの?」
「まさか。どうしてわたしが敵に塩を送るって」
「またまた。そういうのほんとは好きじゃん」
「マリはさすがだねえ、わたしのこと、よく知ってる。でも、本当にわたしは何もしていないの。ただ彼女の目の前を、あり得ないくらいに優雅に蝶が飛んでいたのでしょうね」
 わたしは青い蝶が優雅に舞う姿を瞼の裏に浮かべた。ああ、とわたしは思う。これが才能のある人同士の会話なのだと気付く。わたしは優雅さに見惚れるだけで、それを自分のものにしようなどとは思わないのだ。わたしには向上心が足りないのだろう。
「でもさ、マリにはそれを補って余りある想像力があるじゃない」
 ううん、本当は違うんだよ、マユ。わたしには、こんな風に世界が見えているんだよ。いなくなったマユは飛ぶものの姿に変わって、いつまでもわたしと遊んでくれるんだよ。
「それもそれで、ギフトだね」
「そうかもね」

 わたしは夜の浜辺で、花火に興じるクラスメイトのことを遠巻きに見つめている。彼らは本当に無邪気に火元を見せ合い、煙をかけ合っては、じゃれている。
 スイカの皮がそこかしこに散らばっている。蟹がそれを跨いで横切ったように見えたのは、わたしの空想に過ぎないだろうか。
 クラスメイトはいつまでたっても花火をやめることをしない。わたしはそれを中学生の無邪気さだと思って眺めていたけれど、そうではないかもしれない。これはマユに手向ける弔いの炎。
 一匹の蛾がその火花の中に飛び込んでゆく。もう一匹、もう一匹……。焼かれて体は天に昇るだろうか。
 マユの体も、もう海の中を漂ってはいないで、天に昇ってしまっただろうか。それは淋しいな。もう少し、わたしと遊んでちょうだいよ。
 やっぱり呼んでいるのはわたしの方かもしれないな。
 あの夕立から、もう一年が経とうとしている。
 群青の空に、蝶の星座を繋いでみる。それは花火の煙のせいでぼんやりと、ぼやけてしまった。 

<了>

表紙:茅野 カヤ 「標本」 2013 水彩紙、カラーインク、鉛筆
   HP:http://metronisca.web.fc2.com


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