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【戦争回顧録】祖父の兄の自分史〜手記を転記しました

祖父のお兄さんは私にとっては、お正月に必ずお年玉を孫のように下さる、とっても優しい親類のお爺ちゃんでした。また、毎年報恩講では子供用に用意して下さったお菓子を袋にいっぱい頂き、心からお礼を言うとニッコリされてたのが印象的です。


悲惨な戦争の回想と応召従軍記

(執筆時81歳)
 戦争・・・何という恐ろしい、そして無益な事だろう。にもかかわらず今日も世界のどこかの国で銃声が聞こえ、準備されている様です。我が国も過去に幾度か交戦の経験があるが、幸か不幸か勝ち戦であったが、今から47年前、即ち昭和20年8月終結した大東亜戦は日本が敵を作り4年の間戦い、最後無条件で降伏で将に悲惨そのものであった。折しも今日は丁度12月8日、51年前の昭和16年、私が30才の時、日米開戦の火蓋が切られた忘れられない記念の日である。にもかかわらず新聞に一序の記事もなく、虚しさを感ずるのであった。
 昭和6年支那ロコウ橋に端を発し、以来争いの絶え間なく昭和12年には本格的な戦争となり上海や南京等を攻略し双方に多数の戦死傷者が発生し、他国より干渉もあったが聞き入れる事もなく、そうこうして16年には大国アメリカを相手に挑戦し、ついに先述の日米戦争となり、順次拡大して大東亜を含む戦争に進展したのである。軍隊教育を受け在郷軍人会に席を置く私等、いづれ召集令状が来るに違いないが「来ないように。」と念じながらも今日か明日かと片時も頭から離れる時はなかった。これは私一人の思いでなく、家族を含む全会員の気持ちであったに違いない。病床には寝たきりの父をかかえ、3人の弟は一人は台湾に二人は現役より引き続き軍隊に服務し、軍国主義の当時一枚の赤紙(召集令状)が来れば、何をおいても応召し二度とこの地へ帰れぬ覚悟をし、陛下の臣民として御国のため、男子として当然の事と何の抵抗も不審も抱かなかった当時でした。
・・・が戦後ずっと今日まで、戦争して一体何の為だろう?あらゆる兵器や資材を惜し気もなく持出し、無限に国費を費やし軍隊のみならず主要都市や施設を何の躊躇もなく攻撃破壊し、それのみならず、かけがえのない命を鵜毛の軽きに晒し行動するのであるが勝っても負けても免れることのできない課程、しかも第一線に出征しない老若男女全国民が昼夜をわかたず後盾に全力を尽くし、殊に第一線に出征中の家族の心情、計り知れない不安と苦悩の日々だったに違いない。
 この戦争で二百有余万の犠牲者、親を息子を又夫を最後のみとりもなく生き別れの死に別れ、半世紀を経た今日、未だに詳細や中には生死不明の人もある由、今日まで忘れる事の出来ない悲しい日々だったと思われます。就中一人息子や兄弟二人とも戦死されたり、女、子供を残して主が戦死されたり、しかも月日や状況の確報もなかなか得られず、どんなに苦しみ悩まれた事でしょう。又反面、出征中の留守宅で親や子供が死亡し、これを知らす事も出来ず、残った者で淋しく形ばかりの野辺の送りを涙の中で済まされたのである。
 多くの国々や人に惨禍を与え、自らも本土が戦場となり疲弊惨状その極に達し、加うるに新型爆弾(原子爆弾)により大被害を蒙り、もはやこれまでと第三国に救いを求めんとする矢先、矛先を向けられ遂に無条件降伏のいドン底につき落とされたのである。そして占領下の言われるままの無念な日常、しかしその中にも生きる為歯をくいしばっての忍耐生活の幾星霜!よくぞ今日あるのが不思議な位です。
 軍歌「戦友」を唄い、又「岸壁の母」を聞く時、ヒシヒシと戦争の悲惨を感じ何の為の戦争と想いを新たにするのです。仮に勝っていても、この大きな被害や惨禍は免れる事は出来なかったと思われます。
 幾度か死に直面しながら生を得て帰還された人々も、又国の内外や男女を問わず、その時代を知る人も年が経つと共に減少し、戦後生まれの人々は話や書物により、或る程度の認識はあっても実感は勿論なく、この極まりなき迄の現世の地獄を思わせる戦争を生き残りし我々は、法律の下繰り返す事のないよう子孫に伝える責任を強く感じるのであります。

※応召従軍の記録

日米開戦以来あしかけ四年目を迎えた昭和十九年、戦はいよいよ識列となり、大本営のラジオを通じての戦況戦果の発表も次第に細り敵機もしばしば本土上空に現れ、空襲警報が鳴り響き私設防空壕に待避する事が多くなり燈管制の暗い夜が続き戦況の不利がヒシヒシと感じられる様になった。台湾の弟も、いつしか現地召を受け軍務に服し、病床の父も次第に衰弱し三月二十一日遂に帰らぬ人となった。私、幸い臨終をみとる事のできたのはなによりだった。三人の弟に知らす術もなく、戦時中とて物資もなく形ばかりの送りをすまし、初七日、二十七日と順次お勤めをすまし、引き続き四月二十日、月忌をお勤めしてもらい、隣家等それぞれ下降された直後、ウ○○さんを通じて電話あり召集令状の前知らせであった。そして午後四時過ぎ村役場より届けられた。開戦以来一日として思わざる日のなかった事が今実現し、覚悟の上であるが、葬式をすまし月忌迄お勤めし、今日きた不思議が有り難く感謝の涙に咽ぶのであった。国(軍部)が今日迄待っていてくれた訳でもなく、家族の思いがかなえられたものか、押し戴いて亡き父の霊前に報告し仏前にお供えした。何か重荷を卸したような気持ちだった。そして指定の日、母と妻と百日目の長女に心引かれながら連れもなく深草連隊へ応召したのであった。戦況もいよいよ不利が多く入隊後三日目に出発したが、行き先も解らず北鮮迄行ったが此処で三ヶ月余り足止めされた。当時既に来た鮮住民の反日感情は強く、一人歩きや夜の外出は止められていた。その後二十日余りかかって、どうにか台湾迄たどり着いた。そして比島が目的地である事を知らされた。敵機の来襲が激しく我等の部隊は高雄の小学校を根城として校庭等に防空壕を掘り、一応滞在し行動することができなかった。
 毎日の様に敵機は来るが確か・月・日は多数のグラマン機とロッキード編隊が押し寄せて来た。我が方も航空機と高射砲により応戦され空中戦も激しく行なわれ、大音響をたて墜落された敵機が校庭で忽ち燃えさかり、又落下傘で降下した敵兵を捕虜にしたり、こんな日が三日間続き高雄港の倉庫や施設はメチャクチャに爆撃され、港湾の船や高射砲陣地も空爆され、我が方も相当な損害があった事と思われる。台湾沖航空戦である。
 そんな事もあり又行動のとれない事で一時は台湾軍に編入の様だったが、十二月三十日密かに出発命令が下り輸送船の爆沈を覚悟の上で、全員浮袋とサメよけの六尺の赤フンドシを携帯し、待機中だった他兵種の人達と三隻の船団で出航したのである。不思議に敵機の来襲も魚雷も受けずバレー海峡を渡航し二十年一月一日未明、ルソン島サンフェルナンド沖三〇〇米の地点に着船する事が出来た。同時に引き続き船舶工兵の待機中の数隻のボートに順次移乗し上陸行動が開始された。未明の内はよかったが、明け方になって三機の敵機が現れ、上陸中のボートに機銃掃射をあびせ始めたが、吾が方からは何の抵抗もなかった。約半数ほど下船したと思われる頃、今度は輸送船青葉三丸をはじめ三隻に次々と低空から爆弾を投下、見る見るうちに火炎を起し浅瀬のため沈没はしなかったが、約一時間余り燃え続けた後、横倒しとなった。
 我等は幸い下船抽選順序が早かったので上陸し岸辺に居たが、船と海上で相当数戦死されたようである。その中今度は岸辺が目標となり、非戦闘部隊だった我等は何の抵抗も出来ずジャングルの山の中へ逃避するのがヤットだった。敵機のメクラ爆撃におびやかされながら道なき山中を上へ上へとさまよい、リンガエン湾が見下ろせる所へ来たら無数の敵艦が湾内を埋めていた。
時を経ずして今度は艦砲射撃が一寸刻みに上へ上へと追い打ちを始めた。加うるに空爆もあり何等抵抗する事も出来ず、道なき山中を右に左に迷いながら幾日かして「日本の軽井沢」と言われる避暑地バギオに至り、ヤレヤレと思いしが別荘に住みし人々は順次何処かへ姿を消し、数日後には別天地バギオも侵入せし日本軍を目標に空爆が行なわれ戦場となった。
夜は比島ゲリラの襲撃が続き一息つく間も短く、又山中へ。その頃より高熱にあえぐ人々が出始めた。悪性の比島マラリアである。休養とて出来ず又薬もなかなかもらえず、その内マニラに通ずると称する付近のジャングルを根城にして一応駐屯する事となったが、第一線(山の下の方)で進攻する敵を食い止めている部隊は想像もつかぬ苦しい激しい毎日だったと思われる。空腹と疲労に加えてマラリア熱に浮かされ夢遊病者の如くうろつき、後、路傍にノタレ死する人が見受けられる様になって、悲惨極まりなく現世地獄であった。
 非戦闘部隊だった我等は食料を得るため、ガケの岩場に現地人が隠した籾を探し出したり又カモテ畑(サツマイモ)を掘り返して芋を探し出したり、又バナナの産地シアシン谷へ一日がかりで一房(約一五〇本位)の青いバナナを背負って持ち帰るのがその頃の日常であり、二ヶ月程続いた様に思っている。
 第一線も敵の進攻に耐えられずジリジリ後退し(山の方へ)、もはやこれ迄と全員肉弾突撃を内示された矢先、陛下の重大発表があると知らされるも何の事か聞く術もなく、後刻夕方、隊長より降伏停戦との事を聞かされ、吾が耳を疑い問い返したのであった。悔しさと情けなさに一時は呆然自失、涙が止まらなかったが次第に冷静に戻り、何かホッとした。ヤレヤレとした様な解放感を隠す事が出来なかった事を覚えている。八月一五日の事である。
 かくして山を連れ出され、兵器もドロドロの服も焼き払われ、背中に大きくPWと書かれた半袖・半ズボンを支給されて、ヤシの木繁るポロ岬を開拓して設営された米軍キャンプ場に、捕虜として収容され言われるままに使役の日を何の望みもなく送るのであった。一幕舎四十人で約三十張り程建ち並び、周囲は鉄条網が張られ、要所に一段高く見張り台が数カ所設けられ、常に米兵が監視に努めていた。
 二十一年五月頃から月に一,二回一幕舎に二,三人呼び出しがあり、
「それ帰還だ?」「イヤ島の使役だ?」
理由がハッキリせず、希望と不安にみんなの心が揺れ動いた。が、使役の派遣だった。そして九月頃からの呼出しはハッキリ帰還と言われ、喜んだり羨んだり。何か希望がわいてきた。収容生活一年余りたった二十一年十月末、幕舎に四人呼出しがあり私もその中に入り帰国との事。どんなにか嬉しく小躍りせんばかりだった。残留者に申し訳ない様な気が先立ち、お互いに慰め合いながら「思い出帳」にメッセージを交わし数日後、うしろ髪をひかれるような気持ちで帰路についたのである。そして十一月三日、夢にだに忘れる事の出来なかった、なつかしい日本の国・名古屋港に着き久しぶりに第一歩を踏む事ができた。思わず熱いものが頬を伝った。それは帰還の喜びだけでなく、永久に還らぬ幾多の戦友の事が次から次からへと偲ばれてくるのであった。
 常に死に直面し、死を覚悟しながらも奇蹟的に命永らえて今日あるをつくづく感謝すると共に何の為、戦争に征き何の役に立ったかと思いをめぐらしながら、理由は何であれ将来このような事が二度と起きぬ事を只々願うもので有ります。

幾度か死線を越えてけふの日に
 合わす両手に慈光あまねく

平成四年十二月八日 寄稿

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