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【戦争回顧録】N氏の自分史~手記を転記しました



戦のあとを偲んで

平成5年1月23日

 大正15年12月15日 大正天皇が崩御なされました当時、私は小学生でありましたが小学校で皆様と共に全員集合の上、慎みて追悼の誠を捧げたのでございます。年号も昭和と改正されましたが昭和元年は僅か一週間足らずでありましたが、世論は何か不安と暗黒の時代を予知していたのでありますが、既にこの年の3月、世界の金融恐慌が始まり、昭和五年の金解禁、昭和6年の金輸出再禁止等、国際金融政策が動揺と混乱し、昭和初年の経済不況の人心に一層の拍車をかけたのであります。農村では小作争議が相次いで起こり、都会では労働争議が激化しました。農村では凶作に次ぐ凶作に娘を身売りする様な悲惨な状態が続いたのであります。一方ではラジオ、レコード其の他について華やかな世相もありましたが、それは所詮暗の時代の実相をおおいかくすあだ花に過ぎなかったのであります。
昭和6年頃大流行した「酒は涙か溜息か・・・心の憂のお捨て所・・・」この歌詞が時代の庶民の嘆きを雄弁に物語っているものと思考されます。
 ファシズムと戦争は確実に近づいて参りました。昭和3年第一回普通選挙が実施されました。その直後日本共産党の大弾圧、政友会、民政党等の二大政党の政権争奪の明け暮れ、財閥の癒着の批判を浴びる中で右翼のテロ事件、青年将校のクーデター等々が泡立って参りました。昭和4年3月山本宣治暗殺事件、昭和5年11月浜口首相狙撃事件、昭和6年3月血盟国同盟事件、二・二六事件、五・一五事件、次から次へと血なまぐさい事件が起こって来たのであります。
 軍部は国内革命と対外膨張を望み、昭和3年山東出兵又済南出兵張作霖の爆破事件等々により中国は対日不振と排日感情を生む結果となりました。これに対しまして軍部は満蒙権益の擁護を更に進めて、満蒙を日本の支配下に置く事は日本の生命線を守る道であると唱え、昭和6年9月柳條溝の事件をきっかけに満州事変から昭和十年代の日中前面戦争への泥沼に足を踏み込んだのであります。当時私は観閲点呼を受けるため帰省中で、小学校の校庭に集結して、その開始の時を待っておりました。時間が来て教官が出て参りまして、訓示が始まりました。途中教官は声を高くして「諸君に聞くが、満州はどこの国か。」と聞かれましたので一部の人が「中国の一部だ。」と答えますと、教官は「満州は中国の一部ではない。満州は満州人の国である。よく覚えておく様に。」と云われたのを今でも記憶しております。去る五・一五事件の時凶弾に倒れた老首相犬養毅氏は、問答無用等の暴徒と化した日本軍人に対し「話せば判る」一言を日本ファシズムに対し、痛烈に警戒、警告したのでありましたが、これが通せず誠に残念至極でありました。
昭和12年9月私は応召により、敦賀歩兵第十九連隊に入隊しました。三ヶ月の初年兵教育を受け同年12月神戸港より乗船致しまして、北支那塘沾港に出航致しました。無事塘沾港に上陸、集結しておりました所に地区憲兵隊司令がお見えになり、厳粛な訓示がありました。
「諸君は今初めて外国の土を踏みしめ緊張しているだろうが此処は敵地だ、敵国だぞ!心して行動される様に。昨夜もここの日本の歩哨が、敵の便衣隊により後ろから首を刺され戦死した。慎重な行動を諸君に望む。」
との緊張の内に憲兵隊司令の訓示を胸に刻みながら、北支派遣谷口呉部隊に配属を命ぜられ、大原、輪次、粉陽、大武鎮等各地の戦闘に参加しました。ただし至る所の住民は立派な仏教徒であり、お寺、仏様の前では数珠をかけられ礼拝している所を見て、私達も同じ仏教徒である者同志がお互いに武器を持ち、戦いを続けていかねばならぬかと疑問を以て戦い続けていたのでありますが、結局私達の敵はこれら善良な住民でなく共産八路軍である事がわかりました。
 昭和14年4月路安大作戦に参加。各地に戦いを交えながら、昭和15年3月、部隊は邯鄲(中国河北省南部)に集結。同年4月青島に再集結して乗船、昭和15年5月、広島県大竹港に上陸、原隊復帰召集解除を命ぜられました。昭和18年9月再度召集を受け、鳥取歩兵第四十連隊に入隊。それぞれ配属され軍装を整え全員別府市日出生台の演習場に入り、専ら対戦軍の攻撃訓練に没頭していたのであります。命令によりまして昭和18年12月門司港乗船。敵潜水艦、敵飛行機の警戒を厳重に続けながら、支那海を南へ南へとグムラン湾を越え、タイ国バンコック付近に上陸。直ちに鉄道にてタイ国北部のチェンマイに到着、付近の警備に着きました。昭和19年2月ビルマ派遣、盾兵国に配属を命ぜられ、ビルマ、モールメンを経てベンガル湾アキャプに進駐警備についた。
 昭和19年3月インパールの大作戦に呼応して、マンダレー大攻略戦に出撃。各地において熾烈なる戦いを続けながらモーチ街道に入り、更にトングー迄行動しイラワジ河付近で終戦を知りました。急ぎ佛領カンボジアのプノンペンに転出。
昭和21年3月佛軍により武装解除を受け同年5月サイゴン港より乗船し広島県大竹港に上陸。召集解除を命ぜられました。久しぶりに故郷に帰ってきて初めて家族の顔を見た時、「お陰様にて無事に帰ってきたのだなあ」と感じると同時に遠いインドの野辺に、又ビルマの山中に散幸された幾多の戦友の方々に心より哀悼の誠を捧げたいと思いました。
 戦後の講和条約、東京軍人裁判の帰還については一番大切な事であり、一番重要な事であり、身の引き締まる思いで一喜一憂見守って参りましたが、紳士的な立派な、アメリカの態度、一番大きな被害であったはずの中国の蒋介石大統領の立派な演説、立派な言葉「仇は仇を以て報いず、仇は思を以て報いる」とのこの一言は、私達日本人として心より自責の念を覚ゆるのであります。私はこうした世界の皆々様からの御厚志に当たりまして、心より感謝の誠を捧げるべきであると存じております。
 従いまして私はこうした御厚志に対しまして、日本人の一人として中国、台湾の神社佛国に参詣して家内と共に厚く御礼申し上げて参りました。終了後、終戦後の台湾を周遊して参りましたが、台湾は至る所日本に追いつけ、更に追い抜けの意気高らかに全台一丸となって働いておられる姿を見て、将来は立派な国になるであろうと感心して参りました。終わりに当たりまして、中国、台湾の御繁栄をお祈りしつつ、十日程の旅を終了致して参りました。


































































































































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