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【あなたは幼児期を覚えてますか?~幼児期(幼児後期)4~6歳】自分史倶楽部・誰もが歴史を持っているてこパカ自分史②~2020年は咲顔の幸せ七色47歳🌈

旧Twitter自分史倶楽部での「てこパカ自分史」ツイートの取り纏めnote①の続きになります
幼児期は人格形成の大切な時期、皆さんはどのように過ごされましたか? 

幼児期後編(幼児後期 3~6歳)

4歳半

とある日曜日、家の中で遊び中、弟と2人でずっこけ、弟が乗っかる形に

鈍臭い事に私は左腕骨折及び脱臼😓

強烈に痛かったので瞬間を鮮明に覚えてる、

つもりでしたが
母の育児日記によれば、
「立ち上がろうとしてバランスを崩し転倒し骨折」

あらら?
記憶違いでした

ともかく、両親含む家族は大パニックになったようです。

市内の休日診療も救急も思いつかず、20km先の父の知人の先生宅まで🚙🤣

最初は、近所の接骨院で看てもらい脱臼をはめ治して帰宅してヨシに

まだ痛がるし、色も変になってるから、おかしい、折れてるんちゃうか?と

父は知人の接骨院なのか整形外科なのかは忘れましたが

車で連れて行かれました。

急遽、副木で包帯ぐるぐる巻きに

三角巾で首から固定されました。

痛みもですが、不便さと

どうなるの⁉️という不安感が記憶にあります。

それから、数日おきにリハビリもあって長らく通院しました

バスと電車で母と出掛けられる事が

本当にウキウキ、ワクワク

電車から、ぴょいっと駅のホームに飛び降りると

またコケたらどーすんのや
飛んだらあかん‼️

そう怒られた瞬間の場面を覚えてますꉂꉂ😁

『ほんま、足やなくて良かったわ〜』

駅のホームで母がしみじみと呟いていたものです。

近所の方からも、腕をつったまま弟や友達と遊び回ってると

『また、こけたらどうするんやぁ』と言われながらも走ってて無邪気でした。

ところで、骨折した左腕、ギブスではなく副木だったからか、ずれて骨がくっついてしまい、今でも左腕は曲げ伸ばしの角度が変なままです( ´艸`)

保育園の頃は、歩いて鍛えられたので、小学生になると学校までの登校道は楽勝でした。

その頃、父は職人サラリーマン

自宅敷地に作業場を建て

家でも仕事を請負い、勤めながら副業開始

看板屋さんでした。

興味津々の私は

どうしてもやりたい、と懇願

ずらっと飛び出し注意看板

『シンナーやめますか、それとも人間やめますか』

強烈な看板などなど

当時は手袋無しのペンキまみれ

ピンクの粉石鹸で手洗いでした。

酷い手荒れと甲はアカギレに

でも、手伝えた事が誇らしかったです

子どもなりに、自分が父の手助けを出来た、と思っていました

父の本心は、かなり邪魔だったと思いますが😅

丁寧に教えてくれた姿は

新鮮で、とってもカッコよく見えました(#^.^#)


また、この頃の

祖父は手先の器用さで

簡易墓石や地蔵堂を請負い数千円で手作りして販売していました。

戦争を体験し、仲間が戦地で帰らぬ者ともなり

実際に悲惨で残酷な体験を経た祖父

面白く話せる事、例えば、

『大砲係だったが、下手くそで、そんなもん、上空彼方に飛んでる飛行機に当たる訳無いやん‼️と思いながら、しゃぁないで打ってたわ。』

とか、

『不発弾拾ったら熱くて熱くて、大火傷したわ』

『腹減って、腹減ってな、カタツムリでも何でも食べたでぇ』

など、笑って話してくれましたが

本当に辛かった話は一切しませんでした。

そんな祖父でしたが、随分後で私が短大生の頃

有志らと自主出版で

『第2次世界大戦・大東亜戦争をかえりみて』、自主本を発行しました。

私も手渡され、地元の気さくで楽しい方々の

戦地での生々しい体験、大戦後の捕虜時代の苦労話を知り

生温い事なんて言っていられない

何があっても、生かされている今を受け入れ

自分に出来る事、気づき即行動でやろう‼️

そう思わせて頂きました

その本は、手作り感満載です

滋賀県平和記念館(滋賀県東近江市下中野町431)に

教職の叔母から声をかけて頂き、開館時に寄贈しました。

※マガジンで転記記事を公開しています。


話は戻ります~保育園の頃

大型スーパーや商店街の飾りつけの余ったディスプレイ用品で

キラキラのリビングに、こじんまりしたクリスマスツリーでしたが

本当に嬉しかったな

父は仕事終わりに、きっと疲れていたでしょうが、子どもが喜ぶだろうと

とても張り切ってくれたんだと思うと心温る思い出の一つです。

保育園へは、子どもの足で歩いて50分、かなり鍛えられました。

登園、降園時は親たちが交代で手押しの自転車で送迎の付き添い

一人で何人ものお子さんを責任もって連れて歩くなんて、今では考えられません。

当時、20代から30代前半の方ばかりだと思いますし、時にはおばあさんや、おじいさんが連れて行ってくださっていたように思います。

車通りも少なかったとはいえ、感謝です。

さて、

保育園から、小学校低学年頃、家での私の仕事がありました。

・表の庭履き、仏飯を下げる

・堆肥置き場に生ゴミを捨てる

・肥溜の汲み取りの手伝いと一緒に畑にまく手伝い

一つ一つ必死でした

でも、楽しみもありました

狐や穴熊、狸、もぐらに会える事😻

庭先では、季節ごとに訪れる鳥たちや昆虫を見る事

自然豊かな土地でしたから、大人達は畑の野菜を食べられたり、罠を仕掛けてみたり、本当に難儀していたと思いますが、私は会えると嬉しかったです。


この頃、自我が芽生え、何事もハッキリ物事を言う私、頑固でもあり、保育園の行きしぶりも時々ありました

とある日も、着替えず機嫌悪く泣いてたら、父が半狂乱で怒ると、カナダのお土産のセルロイドの人形だったと思いますが、それを振り回して私を殴りました。
すると、全身に電気が走ったように痛くなり、寝違えたように首と腕が動かなくなって倒れました。
血相を変えた祖父と母が抱き上げたように思います。

病院へ連れて行かれました。

首と肩に注射をする、と言われると、私は、嫌だ、もう痛くない、と嘘をついて診察室から逃げたんです。

結局、軽い打撲と捻挫のような状態だったそうで、湿布貼ってもらってたかな
いつの間にか治りました。

6歳の時

妹が生まれ、嬉しさ最大級!
弟も私も風邪気味だったのでマスクをして父に車に乗せられ面会へ連れて行って貰いました。
弟とワクワクしながら車の窓から外を眺めてたのを覚えてます😊

母と妹が退院してくると、とても愛らしい妹を弟と取り合うようにして
可愛がっていました。
それは、母や祖母をとても、とてもハラハラさせた事でしょう( ̄∇ ̄)

姉として、とにかく
『嫌いを無くそう』と幼心に決めた私
一大決心は

ほうれん草を飲み込む🤩
ポパイみたいに強くなる‼️

ものすごく野菜が苦手でした
それは、畑で祖父母が作った新鮮野菜には、洗ってあるんでしょうけど、食べてると一緒に茹でられた虫類(特に多いのは縮んだナメクジ、途中でカットされてるイモムシ...)が入ってたり、それも栄養や、と茶化され言われ、何でも有難い命やで、と怒られたりするので、野菜とは、にらめっこしながら食べてたからです。

これ、いつの間にか平気になりました。

見てくださり、ありがとうございました。

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