見出し画像

近現代西洋美術を歩く

「絵を見るということ」について

 展覧会が行われて、絵を見にいくといった風な話をすると、「絵画というのはよくわからない」と屡々言われる。絵を解るとか解らないなどというのが、私としては間違っていると言いたい。昔の絵画(ルネサンスなど)は未だ解るが、ピカソのような近現代の絵画は理解し難い。と、仰る人がいる。貴方達がその絵画を見て解るというのは、その絵画をある程度見慣れているからだ。ピカソの絵が解らない。というのは、それが見慣れぬものであるからだ。見慣れてくれば解らないなどと言わなくなる。だから、私は絵画を自己の眼前に創出される”物”というモノを見ることに全霊を捧げる。特になんの目的もなくものの形や色合いや調和だとかを、見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る。という面で眼を働かすという事が、如何に少ないかその欺瞞に気づいてしまうものだ。

 絵画のみならず、美しい自然を眺めた際や美しい経験に遭遇し感動した際、その感動はとても言葉では言い表せぬものだと思ったことは皆様もあることでしょう。この何とも言えぬものこそ、絵描きが絵画を通して皆様の心に直接伝えたいことなのではないか。美しいものは、皆を沈黙させる力がある。これこそが美の持つ力であろう。絵が本当に解るということは、この沈黙に耐える経験を、切実に重ねていく他あるまい。

 という考えに至ると、絵画について多くの知識雑学を持ち、多様な意見を述べることが、即ち絵画を解ったということには必ずしもなるまい。何でも即に解りたがる人よりも、美しい経験に関しては純粋な感想をぽつんと、述べ、眼前の絵画に引き込まれている人のが、余程深いかもしれない。

 今日のように学問や知識が尊重される時代では、こうした経験は疎かにされてしまう。物の性質を知るために働きかけている学問というのは、物本来の姿を壊そうとしているのではないか。例えば生物学は細胞単位にまで一つの花を分解し系統的に理解することを可能とした。然しながら、花そのものを感じる時には、花を細部まで分解し命名された部位を確認する…という手法は取らない。花全体を一つのものとして感じようとするだろう。それは口で言うならまだしも、実践するのはそう容易いものではない。だからこそ、感じる・直観するという経験も学ばなくてはならないのだ。

 立派な芸術というものは、純粋に、豊かに感ずることを私達に教えてくれている。

2020.4.3 追記 単発覚書に修正。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?