茶さん

つらつらと

茶さん

つらつらと

最近の記事

1人で生きるということ

人は、自己のためだけに生きるのは困難で、結局は誰かのため何かのため生きるものだ。三島由紀夫であったか、その真意も文脈もわからないが、そのようなことを語っていたと思 う。 これは、エゴイズムに陥ってはならぬといった底の素朴な説教論ではあるまい。むしろエゴイズムでは決して克服し得ぬ死の虚無を乗り越えるための、宗教に代替する哲学の可能性を示唆しているように思われる。 人々が共同体の連帯と循環の中にのみあり、その束縛を目的としていた頃、己の死は単に己の死であるに過ぎなかったかもしれな

    • 異文化理解について

      「you」は「あなた」である。 「girl」は「少女」である。 これら辞書上の語義の記憶を、いわば機械的に変換しつつ英文和訳を試みると、「あなたは少女です」などといった実にに厳めしい「正解」が現れることになる。 この厳しさはおそらく教室という場の力学に由来 する。 対話的空間でなく、ある種の緊張さえ要請される教室では、語の選択や体形が、対話の相手や場面によって決定される日本語の性格がこのように反映するのだ。 いずれにせよ、これは英語学習を始めたばかりの中学校の教室で

      • 苦海浄土の言語観

        タイポグリセミア現象に見られるように、人間の言語理解のメカニズムは、厳密に文法や用法があっていなくてはならないということではないだろう。また石牟礼道子『苦海浄土』第三章『ゆき女きき書』では、『う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほんに、よかった』。自分はもう口が十分に動かせないが、幸せであったと。しかしもう一度海の上に戻りたいと、願いを紡いでいる。ここでは言葉として、表音として人は理解するのを拒み、言葉からにじみ出る

        • 皿を割ってしまった。

          「皿を割ってしまった」 私はその時マーフィーの法則を想起した。ジャムを塗った面が地面と接してしまうことはよくあるものだと感じることと同様に、皿を割ってしまう。という不可逆で刹那的な出来事もよくあるものなのだと記憶されることとなる。 では、この状況が職場の皿洗い場であったらどうだろう。皆一様に「私が割りました」と自責の念に駆られつつ直属の上司に報告をするのか。それとも「私はやっていません」と、白を切る者もいるかもしれない。或は、皿が割れたというのは信仰上、「神の定めた運命です

        1人で生きるということ

          熱狂的な民衆

          「日本は山がちな国である」「日本は稔り豊かな風土である」。 小学生の私にはじめて記憶された「日本」の定義である。このような簡潔な物言いは、容易には把握し難い対象の全体的なイメージを伝え、概括的な理解を促すのに好都合である。 ただそこには危うさもある。一括した表象はやがて純粋主義的傾向を出来せずにはいないかもしれない。即ちそこにあるべき様々な「差異」が隠蔽され、忘却され、捨象されるのである。 純粋幻想は差別的排外主義と表裏をなす危ういイデオロギーだ。 例えば「国旗・国歌

          熱狂的な民衆

          「マスゴミ」批判について

          メディアと云うものは、人間がコミュニケーションを行うために使う道具、または手段であり、その起源はラテン語のmediumに由来する。例えば、我々が用いる言語や身体動作はこれにあたる。マス・メディア(mass media)と云うものは少数から多数即ち送り手から受け手への情報伝達を担うもの、一方的にフォーマルなコミュニケーションを行う"メディア"とされる。 では、日本のマスメディアとして膾炙しているマスコミとは何か。 本来はマス・コミュニケーションの略とされるが、実態は語源とは程

          「マスゴミ」批判について

          写真の写実主義

          写真が画家に対して持っている危険には、余りに写真の表出にとらわれ過ぎて画家自身が独自の想像力を失うという所謂創作の本質に関わる危険。また、写真が見出す瞬間的映像は屡々人間の知覚を超越している為、寧ろ視覚上の真実を隠蔽するといったレアリスムの本質に関わる危険がある。 『写真工業は芸術内部に侵入することで芸術の最も恐るべき敵となった...』 機械のレアリスムと人間の視覚のレアリスムの二律背反は、写真の無垢な賛美に終始する問題ではないのかもしれない。 馬が草原を疾走する様子、

          写真の写実主義

          正しいか否かの問題ではなく。

          ナイフを研いで木を削り、弓に矢を番えて獣を狙うとき、人はことのいきさつを、つまり何がどのように機能し如何なる事態を実現するか、全てわかっている。 人は世界と繋がり、確かに世界の住人である。要するに道具とは人間と世界との媒体なのである。 それに対して電子レンジがチンと音を立てるとき、果たして何が起こったのか、誰も知りはしない。 水の分子がどうのこうのと、それは知識であり観念であり信じただけの仮説の域を出るものではなく、これは所詮ブラックボックスだ。(無論疑いようのない説で

          正しいか否かの問題ではなく。

          近現代西洋美術を歩く

          「絵を見るということ」について 展覧会が行われて、絵を見にいくといった風な話をすると、「絵画というのはよくわからない」と屡々言われる。絵を解るとか解らないなどというのが、私としては間違っていると言いたい。昔の絵画(ルネサンスなど)は未だ解るが、ピカソのような近現代の絵画は理解し難い。と、仰る人がいる。貴方達がその絵画を見て解るというのは、その絵画をある程度見慣れているからだ。ピカソの絵が解らない。というのは、それが見慣れぬものであるからだ。見慣れてくれば解らないなどと言わなく

          近現代西洋美術を歩く

          遠近法と孤独

          「旧約聖書」の「約」は「契約」である。「契約」である以上、そこには契約する者とされる者とが前提されていよう。いうなれば、やがて「主体」「客体」という明確な二元論として現れるところのエートスがそこに見て取れるのであり、そこから「対象化」による「観察」と「客観」的な「記述」が始まれば、近代科学までは最早一歩である。近代合理主義の出自は、やはり西洋の文化的エートスにあろう。  大きな休みを頂戴した際には東京や名古屋に赴き、音楽会だの美術展だのに出かける。芸術への素直な関心でもなけ

          遠近法と孤独

          街のオモテとウラ

          花は盛りに、月は隅なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほ、あはれに情深し(徒然草一三七段)。 あるいは。名高いミロス島のヴィーナスは両腕を欠いている。その欠落があらゆる腕の可能性を暗示し、いわば全体性を示唆し、故に全き美をなす、などともいう。 これらは即ち、欠けているというそのことが我々の想像力を誘発し、その想像力による対象への補償は無限に行われ得るから、あり得べき現実を超えた抽象的な美が「実現」するということであろうか。 さて、

          街のオモテとウラ

          憧憬

          思い立ったときにその意思や好意を伝えることができない間隙というものは、人々を不安や暗鬼に駆り立てると共に、自己を魅了し束縛するのだ。 かつて恋人への電話には幾許かの決意と緊張が伴ったものである。 彼女が受話器をとってくれればいいが、大抵は母親が、悪くすると父親が出て、こちらの身分を質し所用を問う。 そして漸く彼女に取り次ぐ声も猜疑の響きであった。もとより監視と詮索は避けがたく、即ち我々は一人暮らしを憧憬した。 家族は確かにあった。   それは愛着と憎悪で結ばれた共同

          競馬に見るセンチメンタリズム

          先日、マヤノトップガンが老衰で死亡したという記事を見た。 今回は老衰であったが、競馬場では馬たちが日々死と隣り合わせに互いのしのぎを削りその円周を疾走する。 先頭を疾駆するひと際美しいサラブレッドが、いよいよ最後の直線という華やかな舞台の真ん中で故障、その場で殺処分されることとなった時。急転直下の悲惨な劇に若い男女は涙を流すのか。 それきり彼らは競馬場を去るものである。最早我々の来るところではない。一等の競走馬の不幸を泣いた人々、私はその涙の清らかであることを疑いはしな

          競馬に見るセンチメンタリズム

          自己中心的な世界了解

           天動説の放棄と地動説の採用、即ちコペルニクスによる「転回」には様々な成果と含意がうかがわれるであろうが、その一つは、自らを中心に据えた宇宙観から脱却する契機としての意味ではなかったろうか。 カントの云う「コペルニクス的転回」が、客観が主観に従い、客観は主観によって可能になるという認識論への到達を意味するとなると、あんまり確信もないのだが、天動説が地球中心説であることであることは明瞭であるし、地動説においては、少なくとも地球は中心ではないのであるから、そう大きくは違わないだ

          自己中心的な世界了解

          閉じたコミュニティの欺瞞

          全会一致は決議の理想であるか。唯一絶対の神に人々の進行が躊躇なく捧げられていた時代はそうであろう。真実は必ず一つの所与であるからだ。 しかし太陽が太陽系の中心であることをやめ、諸惑星の楕円軌道を支える二つの焦点の一つになったように、真理も常に可能性の一つとして相対的に語られねばならない段階に我々がいるとすれば、 あるべき議論は複数の焦点の間に実現する仮想の中心の模索であり、 不断の検証と更新を必要とする仮説としての真理の追究であるだろう。 すなわち、何れが正しいかという是

          閉じたコミュニティの欺瞞

          芸術はバクハツだ

          外界の事象を自己の内部にある既存の知としての言語に置換して了解する。日常的な認識のありようはそのように表層的なものだろう。 もしかかる既成の枠組みへの回収を拒み、事象の表皮を突き破ってその内奥に切り込むならば、そのときこそ人は言語化以前の混沌と流動という世界の実相を垣間見、同時に世界の動揺と自己の解体とを経験することであろう。 無論世界を共有し社会を形成しつつ人間として共に生きるためには、虚構の秩序に合意しそれを維持する保守性が欠かせないが、制度の硬直を防ぎ再生と活性化を

          芸術はバクハツだ