見出し画像

[ Chapter 3 ]分断と統合

資本主義と産業のイデオロギーを基盤とする現代の西洋文化では、時間は直線的であり、基準であり、絶対的であると考えられている。後戻りできないルートに沿って進む破壊不可能な矢のように、不変の過去と歴史から離れて、広く開かれた継続的な未来へと前進するのである。多くの人は自分が毎朝目を覚まし、次のステージへと入って最終目標を目指すのだと思っている。例えばそれは、仕事で昇進したり、お金を稼いだり、何らかの方法で自分自身を改善したりするようなことだ。この時間の概念のルーツは、ユダヤ教とキリスト教の伝統に見られるものであり、そこでは、世界の起源と終わりが直線的な進歩の始点と終点になっている。そのことが、人生に救いと贖いの物語を与え、旅の終わりに深い意味が明らかになるという流れを生み出すのである。

この直線的な時間感覚が、各個人が誕生してからの人生経験を構成する、それは、過去から現在へと連続する出来事によって綴られる日常生活に深く埋め込まれている感覚であり、時計の針ー本来、私たちの外に存在するはずのリズムと方向性ーに合わせて刻まれているのだ。従って、ほとんどの人は、初めてのsexや結婚、子供を持つといった「満たさなければならない」目標や節目となる出来事には、それぞれに「適切な時間」があると深く信じている。

ただし、この歴然としたルールがあるにもかかわらず、時間を直線で認識することは甚だしく偏狭に思える。私たちの主観的な時間の認識は、それよりも遥かに多様で変化に富んでいるからだ。例えば、地図と領土の感覚が違うように、時計と時間的経験は区別することができる。

私たちは楽しい経験をしている時、時間の感覚を忘れていることがあるし、何かを待っている時には時間が永遠のように感じられるものだ。忙しい時には時間の不足を感じ、暇な時には多すぎると感じる。また、記憶や空想や悪夢やフラッシュバックといった「意識の中に閉じ込められた時間」が、視覚的なイメージや香り、さらには音楽を聴くことによって蘇る時もある。この意識下のタイムマシンは、連続性の認識を打ち砕きながら、私たちを別の瞬間や日時に立ち戻らせることができるのだ。
母親になって後悔してる/オルナ・ドナート

私たち現代人は「宗教離れ」をしているように見えるが、それは「お寺」や「教会」といった物理的な場所に近づかなくなっただけで、日常の生活の中に、キリスト教や仏教、各国の神話などの精神性というのは遺伝子のように深く身体に刻み込まれている。

だが私たちは「科学」の思想に強く支配されているために、それを感じないでいる。
「科学」は箱という意味では宗教と何ら変わりがない。

例えば、その主たる例は「時間」である。

私たちは当たり前のように時間というものが直線的に「過去」から「未来」へと進むと思っている。そのような時間感覚があるために、仕事で昇進したりお金を稼いだりすると言ったように「自分を改善していく」といったようなことを考える。

「老化していく」ことも同様で、「死んでいく」ことも同様で、
歳をとるにつれて、身体機能はどんなに運動をしている人であろうが衰えていく。

整理された部屋の中も、熱々のコーヒーも、熱烈な恋愛も、いつかは冷め、崩れ落ちてしまう。

どんなものも必ず崩壊していく。自ら壊れていく。
それは当たり前のことである。

そんなエントロピー増大の法則に支配されたこの宇宙で、少しでも崩壊するスピードを緩めようと工夫して出来上がったものが「科学」という文化なのだろうと思う。

だが現代人の多くは(物質的・外面的に)「改善」することを望んでいる。

お金をもっと稼ぎたいとか、
もっと豊かな生活をしたいとか
もっと可愛くなりたいだとか

そのようなことを考えられるのも、私たち現代人が直線的な時間感覚で生きているからである。人類が時間を分類し一日が24時間だと思い込んでいるからである。

だがそのために人類は、「壊れていく」という当たり前のことを、怖がる生き物になってしまった。

だが「科学」が悪いというわけではない。
人類は物事を「分けないと」見えないのである。

細胞1つとっても、同じようなことが言える。
細胞は核や細胞膜や液胞といったような1つひとつの器官が個々に働いているのではなくて「調和的に」「全体性を保ちながら」その役割を果たしている。

だが人間は細胞をそれぞれの器官に分けて記述しないことには、細胞の働きは見えてこない。

このように他人に何かを伝えるためには世界を分けて考えるしか他がないのである。

それは宗教においても見られることである。
創世記でも神は「光と闇」「天と地」「陸と海」「太陽と月」といったように世界を分けて創造したと言われているが、

このように「分類する」といったことは科学が生まれる以前から人類に根強く存在しているものであり、手放せないものでもあるだろう。

だが手放せないからといって、分類するというプロセスを毛嫌いするのではない。

「無分別の分別」という精神が大事なのである。

それを簡単な言葉にすれば

「世界が分かれていないことを知りながら、世界を分けるというプロセスを行う」

ということである。

例えば、現代に存在する生きづらさとしてHSP,LGBTQ,不登校など色々な名前がついているが,それは名前をつけないと,現代のように目を惹くような広告が多い空間では見つけてもらえないからである。

痛みに名前をつける上で「痛みは元々分けるようなものではない」という前提を持っている人であればいいが,そのような前提を持っていない,もしくは自覚していない人がいると「私とあなたの痛みは違うから」といったように分断が起きてしまう可能性がある。

同じ「名前のある痛み」を持った人で集まっても満たされない感覚はここからきているのではないかと思う。


このような現代に潜む生きづらさを癒すために,
禅的なアプローチが意味を成すのではないかと考えている。

現代らしい言葉で言えば「リトリート」であろうか。
統合性の回復かつ,無分別の分別の精神の獲得。

それが「名前のない痛み」を癒す1つの糸口になるのだと,信じている。


[ 続く]


◆HP ホームページ

◆Activo
ボランティアについて

◆公式ライン
団体に関する質問・悩み相談について受け付けています

この記事が参加している募集

多様性を考える