見出し画像

短編小説『眠れない夜は、気楽亭へ』その2

暖簾をくぐると、そこは別世界だった。
金色に輝く夜景が海に映って、夜ならではの眩しさがある街並みが、私の心を少しだけ明るくしてくれる。
今日の気楽亭は、シドニーの海辺にオープンしたらしい。
「めっちゃ良い所だね」
海風が髪を揺らすのを抑えながらカウンターに向かって声をかければ、「だろ?」とちょっぴり誇らしげな声が返ってきた。
「今日はどうした?」
ここのマスターであり、私の心の奥の住人である彼が問いかけてくる。
探るわけでもなく、ただ、ぽんっと軽く投げられた問いかけにちょっと安心しながら、私は答えた。
「具合が悪くて、眠れないの」
「はぁっ?」
彼が素っ頓狂な声を上げて、慌ててこちらにやってきた。
「額、触るぞ」と声をかけられたから頷けば、ひんやりとした手が額に当てられて。
「おまっ……熱あるじゃねぇか!!」
大きな声にびっくりして目を瞑ると、すぐさま「あっ、悪ぃ」と謝る声が聞こえる。
「なんっで体調悪いのに来るんだよ……」
「体調が悪いからこそ、だよ」
そう返すと、彼は一つため息をついて、「気持ちはわかるが……」と呟いた。
彼は私が作り出した存在でもあるから、きっとわかっているのだ。
私が、見かけによらず心が弱いことに。
すぐに眠れなくなって、苦しい夜を過ごすことが多いことに。
だからこそ、気楽亭は生まれたのだから。

「煌びやかな海辺の街で、誰かと一緒にいたかったの」
私がそう言えば、彼は「なるほど」と呟いて、私をカウンターテーブルへと導いてくれた。
「今日はアルコールは出さねぇからな」
「わかってますー」
彼はどこからともなく、深緑のグラスクロスを出してくると、それをぱっ、とカウンターに広げた。
そしてそこに、ふうっ、と息を吹きかけると。
するするする、とクロスが動いて、何かの形になっていく。
「いっちょあがり」
そう言って彼がさっ、とクロスをとれば、“Your worries will disappear”と書かれた、見たこともない草原色のボトルがそこにあった。
「すごい、マジックみたい!」
私が手を叩いて喜ぶと、彼はふふんと笑う。
「完璧だろ?そりゃそうさ。この俺がやったんだから」
思わず、声を上げて笑ってしまった。
彼はスクリューキャップを開けて、グラスに白い液体を注ぐ。
ふわりと香ったのは、ソーヴィニヨン・ブランに近い、ライムのような爽やかさ。
「ノンアルだけど、なるべくお前の好きな味にしといた」
元気を取り戻すまじない付きでな。
彼はそう言って片目を瞑る。
「ありがとう。いただきます」
早速口をつけてみると、しっかりとしたぶどうの味が喉を通っていく。本当に、少し身体に燻っている熱が下がって、心のもやもやが晴れていくような、そんな気がする。
「美味しい……!!」
思わず、心からそう言葉にした時だった。

ぽんっ、と素敵な音がした。
まるで夏の青空の下、洗濯物を広げて干すときのような、爽快な音。
見ると、テーブルの上に、白い小さな花束がある。
今日の、花まるの花だ。
「デイジーの花言葉は、『希望』らしいぜ」
彼がそう言って笑う。
このドリンクにぴったりの、素朴だけれど明るくて、元気をもらえる花だった。
私はそれをぎゅっと抱きしめて、シドニーの夜景を見る。
まるで地上に降りた満天の星のような灯りの中には、沢山の人が暮らしているのだ。
その人たちにも、この気楽亭みたいな場所があるといい。辛くなったときに素敵な飲み物を飲んで、花まるの花をもらえたらいい。
そう思いながら、私はグラスを傾けるのだった。


この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いいたします!小説家として、そして尊敬する方といつか一緒に働くために精進する所存です✨