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「啐啄同時」の新しい解釈を考えてみた

啐啄同時(そったくどうじ)。

啐(そつ)は、ひな鳥が卵から出ようとして内側から殻をつつく音。
啄(たく)は、その音に気づいた親鳥が助けようと外側から殻をつつく音。

上司と部下、親子、先生と生徒、コーチなど「師」と「弟子」の関係を表した禅語です。
「啐」「啄」のタイミングがぴったりと合うことが弟の成長の肝であり、師弟の理想ということです。

これだけだと、「師」、つまり「導く側」の力量が問われる感じがします。殻の中にいる弟の音に耳を傾け、絶妙なタイミングを逃さず、師自身が殻を破らない加減で突き返す。

わかります。理想的です。けれども、「言うは易く行うは難し」。
世の中そんなに禅寺で修行した人ばかりが「師」の役を担っているわけでありません。

それでも期せずして師の役割を担うことになった場合、自分のこれまでの経験、つまり、自分の師にあたる人がしてくれたことに照らし合わせて、試行錯誤しながら弟を導くわけですが、過去の経験は全く役にたたない、むしろ逆効果になることが多いのが社会背景の変化が激しい今の時代の難しさです。

弟がそもそも殻を突かなかったり、すごくよわーい音で突いたり、一度師の突き返し方が合わないと思ったら二度と突かなかったり、よかれと思って一生懸命突いたら「突き過ぎだ!」と訴えられたり、そんなこともあるわけで、師が全てを「察して」弟の成長を促すなんて、よっぽど徳を積んだ僧侶しかできない気がします。

そうすると、師は突きどころがわからない。わからないから突かない。
「自分で考えて突け」と言い、弟が突かないと「最近の若いやつは・・」となる。
その最近の弟は殻の外に何があるのか、そもそもなぜ殻を突かないといけないのかも分からないと突かない傾向にあり、こちらもわからないから突かない。

お互いに「不安とセットのわからなさ」で、もはや殻自体を見なかったことにするしかない。

あちこちの企業に伺い、みなさんの声に耳を傾けると、
そんなことがここそこで起きている印象です。

啐啄同時(そったくどうじ)。
いい言葉なのですが、解釈が今の時代にはまらない。
そこで新しい解釈を考えてみました。

そもそも師弟関係というのが今の時代にそぐわない。
いっそ師弟関係を解消して同じ景色を見るための「響働関係」と捉え直してみるというのはどうでしょう。

殻を成長に必要な壁ととらえるのではなく、何かに対する「とらわれ」とするならば、もしかしたら殻の中にいる人と外にいる人は時と場合によって変わるのかもしれません。

ある場面では師にあたる人が殻の中で弟が殻の外から師のとらわれを共に突く。
ある場面では弟にあたる人が殻の中で師が殻の外から弟のとらわれを共に突く。

「啐」「啄」のタイミングをお互いに伝え合い、それぞれの「とらわれ」を共に突きながら破りあい、励まし合い、導きあいながらそれぞれの殻の外に出てくる。

殻の中にいる人と殻の外にいる人が共に力を合わせて「殻を破る=とらわれを壊す」。その「響働関係」を表す言葉が啐啄同時(そったくどうじ)。

「はじめの一歩」ならぬ「はじめの一突き」わからなさと不安を共有するところから始めてもいいのかもしれません。

そのためにはまず自分自身が身につけているプライドという殻を自分で破ることが必要なのですが。

うーん。啐啄同時(そったくどうじ)の新解釈。
まだ生煮えです。